山のお坊さん

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「着物はこちらに置いておくので使ってください。ここなら迷うこともないと思いますから、私は先に戻っていますね」  お礼をするはずが、温泉に案内されて着物まで貸してもらうことになるなんて。  こんなに迷惑をかけているのに、お坊さんはずっと穏やかな表情や声音で話してくれる。  なんだか返さなかいけないお礼が増えていってる気はするけど、とりあえず今は全身をきれいにすることが先。  とはいえ、石鹸などはない。  用意してもらった着物と一緒に置かれた二枚のうち一枚の布をお湯で濡らして全身を拭くくらいしかできない。  一体いつの時代のお風呂だと頭の中でツッコミながら、全身を綺麗にしたあと温泉へと入る。  山の中での温泉なんて贅沢だなと癒やされている間に時間はあっという間に経ち、朝食を作ろうと戻ったときにはすでに用意されていた。  その後もお礼をしようと動こうとしたが、気づいたときにはすでにお坊さんが終わらせていて、私がすることは何一つ残らなかった。  そんな日々が数日続き「私にお礼をさせてください」と、とうとう直接お坊さんに伝えたが「お礼など不要ですよ」と微笑むだけ。  これ以上お世話になるのも逆に迷惑になると考えた私は、渋々お礼は諦めて明日変えることを決める。 「そうですか、明日お帰りに……」  何だか寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。  山を下りる道を教えてもらい、その日眠りについた私は、翌日の朝この場所を去る。 「色々とありがとうございました。ろくにお礼もできず申し訳ありません」 「いえいえ。貴女はすでにお礼をしてくださいましたよ」  言われた言葉に疑問をいだきながらも、最初に着ていた洋服を身に着けて教えてもらった通りに山を下りる。  長いと思っていた道のりは呆気なく、お坊さんの家からそれほど歩いていないところで出口に到着。  まさかこんなに近かったなんてと思っていると、持っていた鞄の中から着信音が聞こえて応答を押す。 「どう、お坊さんには会えた?」  スマホの向こうから聞こえた友達の声。  忘れていた記憶が一気に思い出され再び山を駆け上るけど、近かったはずのあの建物が見えることはなかった。  この山には噂があった。  山の中で建物を見たり、眉目秀麗なお坊さんがいると話す人が。  不思議な事に、もう一度その場所に行こうとしてもたどり着けることはなく、中には数日そこで過ごしたと話す人もいたが、時間は数十分の出来事。  噂を確かめるため山に入る人もいたが、会えた者はいない。  私もその一人だったわけだけど、その人達と違ったことは、建物も、お坊さんにも出会えたということ。  スマホを見れば、時間は私が山を登り始めて数時間しか経過していない。  まるで夢でも見ていたのか、それとも狸や狐に化かされたのか。  どちらにしても現代では到底信じがたい話。  誰に話したところで笑われると思うけど、私が帰ると話したとき一瞬お坊さんが寂しそうに見えたのは勘違いなんかじゃなくて、一人になるのが寂しかったんじゃないだろうか。  もしそうなら、きっと今も待ち続けているのかもしれない。  あの場所に訪れる人を。 《完》
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