31 千影視点 僕の女神へ

14/16
前へ
/163ページ
次へ
 そして、いよいよその時がやってきた。  去年訪れたロッジの予約を、七月の終わりに入れておいた。今回は偽名や嘘の住所を使わずに、本当の自分を記入する。  その日に彼女がいるのかはわからない。だが、彼女のほうから千影と「約束」をしたということは、そこにいる可能性が高いだろう。  腕時計を付けて鏡の前に立つ。  あの時からだいぶ立ち直ったことを示すために、カットしたばかりの髪をセットし、伊達メガネはかけずに顔をしっかり見せるようにした。 「これなら気持ち悪がられることもないかな……?」   それよりも自分のことを、そして交わした約束を、彼女は覚えていてくれるだろうか。  淡い期待と不安を持ちながら、千影は家を出た。  今年は新幹線に乗り、長野駅で降りて在来線に乗り換えた。そしてバスに乗り、降りた場所から二十分ほど歩いてロッジに到着する。  すがすがしい空気や豊かな緑の匂いと青い空が千影を迎えてくれた。  懐かしい気持ちでロッジに入り、オーナーがいる受付でチェックインを済ませる。今回は本名と本当の住所で予約しているので、新規の客として迎えられた。  去年のみすぼらしい格好をした怪しげな男だと思われるよりも、初めての客として扱われる方がいい。そう考えた千影は、敢えてオーナーに何も言わなかった。  去年と違って今日は余裕を持って到着したため、まだ夕日は落ちていない。ロッジの周りをぐるりと散歩し、崖に続く小道に入った。  あの時、精神的に参っていた千影の耳には、蝉の声がうるさく響いていたが、今日はひぐらしの声が心地よかった。生き生きとした緑の香りを胸いっぱいに吸い込み、森の中から遠くを見つめる。荘厳な山々が日に輝き、夏を謳歌している様が感じ取られた。
/163ページ

最初のコメントを投稿しよう!

151人が本棚に入れています
本棚に追加