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気がつくと文人の部屋の天井を見つめていた。泣き疲れて、歯磨きも着替えもせずに床に転がったことは覚えている。しっかりと布団で寝ていたから、文人が移動させてくれたのだと思う。
「文人、ごめん」
目をこすりながら起き上がる。人差し指の側面で触れたまぶたは、ぶよぶよと腫れていた。
「あ、瑞生おはよ。早く準備しないと満員電車に巻き込まれるよ?」
身支度をすませた文人が腕時計をはめながら微笑んでいた。時刻は朝五時だ。
「大学前の駅においしいパン屋さんがあって、たまにそこでご飯食べてるんだよね。瑞生も行く?」
「うん……」
瑞生は生返事をして、のろのろと立ち上がった。
大学の最寄り駅で朝食を済ませてから文人と二人で歩いていると、向こうから来る恭介と鉢合わせしてしまった。ふてくされた顔で、瑞生に話しかけてくる。
「俺にはどこにいるか連絡もよこさないで、糸川とは会ってたのかよ。そうかよ」
自分を棚に上げている恭介に腹が立ち、瑞生も頬を膨らませた。
「そっちこそ、情報が欲しいなら聞いてくれば良かったじゃん」
険悪なムードが漂いかけたところに、文人が割って入ってくる。
「朝田くん、誤解してるようだから言っとくけど、おれと瑞生は友達だよ。大切な友達がSOSを出してきたから、家に泊めてあげてただけ」
「それはどーもありがとうございました」
おざなりに頭を下げる恭介を見て、瑞生は拳を握った。
「お前、僕の恩人にそんな言い方ないだろ!」
まあまあまあ、と文人が苦笑して瑞生の手を押し戻した。それを見ていた恭介が舌打ちをした。
「糸川もむかつくんだよ。なんで恋人の俺は女装した瑞生としか出かけられないのに、糸川は普通に遊んだり触ったりできんだよ。意味分からないだろ」
文人が驚いたように瑞生の手を離した。おどおどと恭介と瑞生を交互に見ながら、少しずつ後ずさりした。
「不快にさせたならごめん。これは友達としてのスキンシップで、別にやましい意味なんてなかったんだ」
「知ってるよ。分かってるよ!」
恭介が大きい声を出し、文人の肩が跳ねた。
「頭では分かってるんだよ。糸川とは友達で、恋人は俺だって。でも、気持ちが追いつかないんだよ……」
恭介が額を手でおさえ、俯いた。口元だけが見え、それがにいっと引き上げられた時、瑞生は寒気が走った。何かとても嫌なことを言われるような予感がした。
「俺たち、本当に別れようか」
「嫌だ!」
頭で考えるより先に言葉が出ていた。
「最近、喧嘩ばっかだろ? 離れた方がお互いのためじゃないか?」
額に当てられていない方の恭介の腕を、すがるようにつかむ。
「嫌だ。別れたくない。合コンも行かないで」
やっぱりこの手を放すことなんてできない。
「合コン……聞いてたのかよ」
恭介が独り言のように呟く。それを聞いた瑞生の目からぼろぼろと涙がこぼれた。ぎょっとしたような顔で恭介が瑞生を見つめている。
目の前にハンカチが差し出された。文人がばつの悪そうな表情を浮かべていた。
「あとは二人で話し合った方がいいと思う。今日は家に帰れそう?」
瑞生は恭介に視線を戻した。恭介は頭を掻きながら、わずかに唇を尖らせた。
「言っとくけど、合コンは断ったからな。今日は帰ってきてくれる?」
恭介が瑞生の肩に手を回した。瑞生はそれを拒まずに、静かに頷いた。
「じゃあ、おれは先に学校に行ってるね」
文人が笑顔で手を振りながらその場を去った。瑞生は恭介を見上げた。恭介が歩き始めたので、瑞生も脚を動かした。二人とも無言のままだったが、肩に置かれた恭介の手は、校門に着くまでそのままだった。
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