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「『ホモ』って呼ばないでください。僕は『ゲイ』です」
「同じ意味だろ。好きに呼ばせろ」
「同じじゃない。ホモって呼ばないで」
父の黒い瞳が銃口のように瑞生に向けられていた。その黒さに足がすくんだ。
「『ホモ』は差別用語ですから」
背後から冷静な恭介の声が聞こえてきた。
「欠陥品を差別して何が悪いんだよ」
父が鼻で笑った。その瞬間、瑞生の横を恭介がすごいスピードで駆け抜けていった。
「瑞生にその言葉を刷り込んだのはお前か!」
気づいた時には、恭介が父に馬乗りになり、右の拳を振り上げていた。母の悲鳴が聞こえ、瑞生は我に返った。恭介に駆け寄った。恭介が背負ったままだったリュックが邪魔だったものの、なんとか右手首をつかんだ。本気を出した恭介は非力な自分では止められないことは分かりきっていたが、何もせずにはいられなかった。恭介が人を殴るところは見たくないし、こんな父親でも瑞生を育ててくれた人だ。これ以上情けない姿は見たくなかった。恭介は、まだ拳を振り下ろす気はないのか、瑞生が両手で握った程度でも、恭介の拳は同じ場所に留まっていた。
こんな状況にもかかわらず、父は強気だった。
「年上に向かって『お前』とは生意気だぞ!」
「そんなことどうでもいい。瑞生を欠陥品だなんて言うな! 自分の息子だろ!」
後ろから見ていても、恭介の全身に力が入っているのが分かった。「欠陥品」という言葉に恭介が傷つき、怒ったのだと思っていた。でもこの拳は、瑞生のために振り上げたものだったのだ。
「子供がいなくたって、ゲイだって、人間なんだよ! 自分の価値観に合わないからって、『欠陥品』なんてひどい言葉吐いていいわけないだろ! 俺たちはモノじゃない。ヒトなんだよ!」
今度こそ恭介の腕に力が入った。瑞生も力の限り止めようと頑張ったが、瑞生の両手は恭介の肘の方にずるずると滑っていった。もう無理だと思った瞬間、母の「もうやめて!」という叫び声が響いた。もう一度、今度はかなり低い声で母が言った。
「もうやめて」
ずっと父の傍らにしゃがみ込んでいた母が立ち上がった。恭介の手が止まった。
「今日は挨拶をしにきてくれたんでしょ。喧嘩じゃなくて、ちゃんとお話ししましょう。とりあえずお茶入れるから、座って待ってて」
冷静な母の声には、この場を制する力があった。恭介が父の上から体をどけて、「申し訳ありませんでした」と頭を下げたが、父は恭介と目を合わせようとしなかった。黙って立ち上がり、手で脚や尻のほこりを払った。
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