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「さて、行きますか」
玄関で靴を履き、恭介が先に立ち上がった。左の手のひらを上に向けた状態で差し出してくる。
「瑞生様、お手を拝借」
「なんだよそれ」
瑞生は笑いながら、恭介の手のひらの上に自分の右手を乗せて立ち上がった。恭介がアパートのドアを開け、外に出る。その手に従って瑞生も出ようとした。しかし、玄関のたたきとアパートの廊下の境目を乗り越えようとした瞬間、足が進まなくなった。立ち止まってしまった瑞生に引っ張られるように、恭介が戻ってきた。恭介はドアが閉まらないように肩と足でおさえている。
「怖い?」
「うん」
グレーのパーカーの中心、ブラジャーをつけていない平らな胸元を握る。女装もメイクもしていない、「すっぴん」の自分。これから恭介と出かけるのだ。友達としてではなく、恋人として。
「やめよっか?」
優しい恭介の声に流されそうになるが、瑞生は頑張って首を横に振った。
「やめたくない」
せっかく瑞生が自分の意志で「恭介とデートがしたい」と思えたのだ。それをなんとしても実現したかった。
「瑞生。俺を見て」
恭介の唇が額に振ってきて、瑞生は思わず顔を上げた。
「瑞生、好きだよ」
手を繋いでいない方、恭介の右手が頬に添えられて、唇にもキスを落とされた。ドアの向こうが気になり、首を動かすと、恭介が廊下を確認するために後ろを向いた。数秒間辺りを見回したあと、瑞生に向き直り、微笑む。
「大丈夫、誰もいない」
「恭介、やっぱり怖いよ。でも、外に出たい。どうしたらいい?」
恭介を見上げると、自分の目に涙が溜まりかけていることに気づいた。でも、こんな時に泣きたくはない。瑞生は首を更に上に傾けた。恭介の右手が、瑞生から離れた。
「俺たちなら大丈夫。何があっても俺が守ってやるから。やったことないこと、なんでもやりたいって言ってくれたろ? 俺も一緒に、瑞生と一歩ずつ、踏み出したい」
あと一歩踏み出せば、瑞生も外に出られる。でも、その「あと一歩」がなかなか踏み出せない。
瑞生は俯いた。恭介と一緒なら、自分はずっと幸せだろうと理由なく信じられる。今日の自分が、今までの人生の中で一番好きだ。だけど……。
恭介が突然、後ろを指差した。
「そうだ、瑞生。虹が出てたよ」
「え?」
恭介の言葉に導かれるように視線を外に向ける。気が抜けた瞬間に手を引かれ、気づいた時にはドアの仕切りを乗り越えていた。恭介が、にいっと笑い、瑞生と繋いでいる手と反対側の手でドアに鍵をかけた。これでもう部屋の中には戻れない。
「やっと出られたな。瑞生、一歩踏み出せて偉かったぞ」
嬉しそうに笑う恭介を見て、照れくさくなった。だけど、この言葉は伝えておきたいと思って口を開いた。いつも恭介は、瑞生に嬉しい言葉をかけてくれるから。
「ありがとう。恭介がずっと僕と一緒にいてくれたからだよ。僕を諦めずにいてくれてありがとう。僕を好きになってくれてありがとう」
恭介は、「行こうか」としか言わなかった。落ち着き払ったように見えるその体の中心で、心臓が激しく動いていることは瑞生がよく知っている。
瑞生は、繋がれた手を強く握り返し、恭介に向かって微笑んだ。男の姿で外に出た。手を繋いでいる。心臓の動きが早くて、喉がからからだ。「気持ち悪いと思われたらどうしよう」という不安が払拭されたわけではない。でも、恭介が隣にいてくれるから、これからもなんとか二人で乗り越えていけるだろうと、瑞生は信じている。
アパートの廊下を、繋いだ手を揺らしながら歩いた。瑞生は恭介に微笑みかけた。
「僕さ、恭介と付き合えて幸せだよ。ゲイじゃなかったら、恭介と付き合えなかった。今はまだ、『ゲイに生まれて良かった』とは言い切れないけど、いつかはそう思えるようになりたい。恭介、それまで、そばで見守っててくれる?」
「もちろん。それまでと言わずに、いつまでも。一生一緒にいような」
恭介が繋いだ手の甲にキスを落としてきた。瑞生は急に気恥ずかしくなって、空を仰いだ。二人を祝福するように、きれいな虹が弧を描いていた。
(了)
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