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夜にメイク動画をベッドの中で観てしまったために、寝不足だった。だからいつもと違う行動をしてしまったのだろう。
親からの仕送りが入ったので、恋人のためにおいしい総菜を買って帰ろうと、学校帰りに駅直結のデパートへ立ち寄った。上京して一ヵ月。慣れないながらもなんとか生活できているごほうびのつもりだった。エスカレーターで降りている途中で、化粧品売り場に目を奪われた。もうワンフロア降りれば目的地にたどり着けると分かっているのだが、真山瑞生は立ち止まってしまった。照明が他のフロアよりも多いためか、全体的にきらびやかな印象を受けた。
『化粧は自分のためにするもの。僕と一緒に、なりたい自分に変身しちゃいましょう』
昨夜見たメイク動画の最後のコメントが脳裏によぎる。光り輝く場所に吸い寄せられるように、瑞生は歩みを進めた。
目についたファンデーションのテスターを右の人差し指で取り、左の手の甲に伸ばしてみる。毛穴が消え、つるりとした陶器のような肌になった。何気なく値段を見て、この場にいることがとてつもなく恥ずかしくなった。一個七千九百六十円。瑞生が総菜用の予算として考えていたのは、少し奮発してもトータル三千円だ。そんな金銭感覚の人間が気軽に立ち入っていい場所ではなかったのだ。周りを見回してみると、店員も客も、女性がほとんどだった。瑞生は間違ったことをしているような気分になった。
急いでその場から離れようとした時、後ろから声が聞こえた。
「何かお探しですか?」
話しかけられてしまった。振り返ると、にこやかな女性店員と目が合った。年齢は母と同じくらいで四十代後半だろうか。
「あ、いや……」
瑞生の目が泳いだ。どうしよう、勧められてもお金がないのに。瑞生の緊張をゆるめるように、店員が赤い唇を引き上げた。
「最近は男性でもお化粧される方も増えていますからね。もしご興味あれば、タッチアップもできますよ」
タッチアップとは、美容部員に化粧を施してもらうことだったか。瑞生はYouTubeで得た知識を思い起こした。
『僕はプロのタッチアップを受けて、化粧の楽しさにハマりました。色選びとか、塗り方とかも教えてくれるから、女装初心者さんこそデパートに行くことをおすすめします!』
目の前の店員の笑顔が、Youtuberのものと重なる。店員が口を開くことはなかった。瑞生の返答を待っているのだろう。
「ありがとうございます」
沈黙を埋めるためだけに発した言葉だったが、好感触ととられてしまったようだ。店員は商品を手のひらで差して説明を始めた。
「こちらのファンデーションは男性にもおすすめです。肌の色ムラを抑えてくれるので、肌がきれいに見えますよ。あとこちらの商品も買っていかれる男性が多くて――」
「『男性』じゃ、意味ないんです」
「え?」
思わず漏らしてしまった言葉に、店員の表情がわずかにこわばった。店員が何かに思い当たってしまう前に、瑞生は頭を下げた。
「すみません、急用を思い出しました」
踵を返し、早足で出口に向かった。居心地の悪い場所から逃げることに必死で、総菜を買うという目的が果たせていないことに気づいたのは、自宅の最寄駅に着いてからだった。
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