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「はい、タバコ」
海の中にいる女は、びしょ濡れになったタバコの吸殻をこちらへずいっと差し出してきた。
オレは顔を引いて、眉をひそめた。
「オレが捨てた一本で何が変わる。もう海はゴミ箱みたいなものだろ」
「変わるよ。あたしや魚が暮らしてるもん」
どうやら女はオレが受け取るまで引かないようだ。
しかたがないので、湿って気持ち悪くなったタバコの吸殻をしぶしぶ手に取る。
女は満足げにニッコリと笑った。
そしてオレが座っている横に手をかけて、停泊場へ上がってきた。
ゴーグルをおでこに持ち上げたことであらわになった素顔や立ち姿を見るに、オレと同じくらいの二十代そこそこといったところか。
女は近くに停めてあったボロくて古い型の小型船へ向かった。
きっと女の船なんだろう。
それにしては、酸素ボンベをはじめとし、やけに荷物が積まれているが。
「お前もしかして……ニンギョか?」
オレは女の背に話しかけた。
「そうだよ」
女は振り返り、答えた。
悪びれたり、後ろめたさを感じたりしている様子はない。
ニンギョとは、家を持たず、海の中に沈んでいるゴミの山から必要な物を拾い集めて生活している者のことを指す。
マシなニンギョは船を持っていて、そこに住んでいる。
アドレスホッパーのような者だ。
船を持っておらず、停泊場などに野宿しているホームレス型ニンギョもいる。
最悪の場合、海に沈んだ建物内に不法侵入して、そこで盗んだ物でやりくりしている窃盗犯もいる。
海に沈んだからといっても、建物には所有権がある。
しかし、沈んだ海の中の建物や町を管理する人は少ない。
この女は船を持っていてそこに住んでいるようなので、アドレスホッパー型ニンギョ。
ニンギョの中でも、まだマシなほうか。
しかし浮浪者だと思うと、少し軽蔑する。
窃盗犯の可能性だってあるのだ。
「若いのにニンギョやってて大丈夫なのかよ」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがと。やさしいね、オニーサン」
嫌味を受け取らないとは。
ちょっと嫌な奴。
ニンギョは自分の船へ入っていった。
しばらくして出てきたニンギョの背中に酸素ボンベはなく、ガスコンロやフライパンや皿を重ねて、抱えて持っていた。
脇にはクーラーボックスを下げている。
そして、わざわざオレの隣にきて、あぐらをかいた。
「オニーサン、名前は? なんていうの?」
ガスコンロを地面に置き、その上にフライパンをのせるニンギョ。
調理の準備をはじめだした。
「ニンギョに名乗る名前はもってない」
オレはぶっきらぼうに答えた。
「そ。じゃあナナシさんって呼ぶね」
「勝手にあだ名をつけるな!」
ついツッコんでしまった。
その拍子にニンギョの顔を見たら、ニシシといたずらっ子のような表情をしていた。
「なら名前を教えてくれる?」
「っ……ナナシでいい」
「そ、わかった。ナナシさんっ」
「お前はなんていうんだ、ニンギョ。まず自分の名前を名乗るのが礼儀だろ」
「いーよ。あたしのことはニンギョで」
「なんだよ」
ニンギョはニタニタ笑っていた。
遊ばれているみたいだ。
悔しい。ニンギョなんかに。
「ナナシさん、魚食べるぅ〜?」
ニンギョはオレの気持ちを知りもせず、のんきに調理を続けている。
クーラーボックスの蓋を開け、捌かれた魚を取り出し、フライパンで焼きはじめた。
「それ、盗んだのか?」
オレはニンギョの前に広げられたキッチン用具を指さして言った。
「んーん。所有者に『海の底から取ってこれるもんならやるよ』って言われて、取ってきて、そのまま貰ったものたちだよ」
ニンギョはあっさりと説明した。
本当だろうか?
何回も練習してきた嘘ではないか?
「ナナシさん、あたしのこと疑ってるでしょ」
疑う心が顔に出てしまっていたらしい。
ニンギョに指摘され気づいたが、そんなことはないふうを装って「別に……」と小さく呟いた。
「たしかにあたしはニンギョと呼ばれる暮らしをしているけれど、盗んだことはないよ。盗みはしないの」
ニンギョはフフンと得意げに言った。
でも、それはおかしい。
だって、ニンギョが今コンロで使っているガスボンベやさっき背負っていた酸素ボンベは、海の中のゴミの山から見つけだせる品物ではない。
つまり、買うしか手に入れる方法はない。
「ガスボンベも酸素ボンベもか? 盗みは海中だけのことを聞いてるわけじゃないぞ」
オレは少し強い口調で問い詰める。
「うん。買ったよ」
ニンギョは動揺していない。
どうやら本当っぽい。
となると、新たな疑問がうまれる。
「買った? どうやって稼いだんだ?」
するとニンギョは、待ってましたと言わんばかりに、口角をニッと上げた。
そして、オレに秘密を共有するかのように、顔を近づけて、口元に手を添えて言った。
「あたし、落とし物拾い屋をしてるの」
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