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あの日から数日後。私は入学式の看板の前に母と並んで立っていた。
胸につけられた「入学おめでとう」と書かれたリボンが頼りなさげに揺れている。
「はぁあああ」
私が大げさにため息をつくと、母にわき腹を小突かれる。
「あんた、入学式は一生に一度なのよ。もっと楽しそうにしたらどうなの?」
「そんなこと言ったってさ」
周囲の同級生を見渡せば、皆、新品の制服に身を包んでキラキラと輝いている。けれど、私は……。泣きはらして赤くなった目元では、きっとあんな風には輝いていない。
母はそんな私の口元を無理やり持ち上げる。
「せめて写真ぐらい笑いなさい」
「……ひゃい」
そう答えると、母の手は私から離れていった。
私は頬を引きつらせながら、なんとか笑顔を浮かべた。
そうしてやっとこさ記念撮影を終わらせた私とは対照的に、周囲の同級生たちは手を取り合って写真を撮ったり、さっそく連絡先を交換したりしている。
「ほらほら。あんたもあれ、やってきなさいよ。青春青春」
「無理」
私は母の言葉を軽く受け流しながら、スマホを開く。そこに浮かび上がる文字は、「アントワネットループ 活動休止」だった。
―― 昨日の夕飯の後、京子から送られてきたネットニュース。
ソファに寝転がりながらその文字を目にした、私の頭の中では、最後に見たマリーの姿が浮かんでは消える。あの時、髪を染めなおしていなかったのは、このことと関係があったのかもしれない。
「どうして……」
マリーはどうして、私に何も言ってくれなかったんだろう。――
私は入学式もそっちのけで、何度もネットニュースを読み返した。けれど、何度スマホを見直しても、活動休止の文字が消えることはなかった。
母はそんな私を、残念そうな目で見つめている。
「せっかくの入学式なのに」
「私にとってはアントワネットループの方が大事なの!」
そう言うと、私はまたスマホ画面に目を戻した。
マリーの弾くギターの音がはじけ、私の奥底から消えていく。残ったのは、私のへたくそなアコースティックギターの音色だけだ。
その日の夕食後。私は、リビングのソファの上で寝転がりながらスマホをいじる。そしてまた、ため息をついた。今日だけで何度目のため息だろうか。
すると母が洗っている茶碗をカチャリとシンクに置く音がした。父は何かを察したのか、サッとテレビの電源を落とす。
「あんたねぇ、ずっとゴロゴロ……入学式もつまらなそうな顔して!」
私は思わずビクリと体を起こす。母の顔を見れば不満げで、これが本気のトーンであることは一目瞭然だった。
私はサッとスマホの画面を消すと、ソファの上で正座をする。
父はいち早くリビングから立ち去っていく。一瞬目で、「ごめん」と謝られたが、無情にもリビングの扉は閉じられた。
「大体、せっかくもらってきたギターも全然使ってないじゃない」
母は手を洗い、ズカズカとこちらに迫ってくる。
「それは今やろうと思って……」
「今やろうっていつよ」
「……今……」
母は大げさにため息をついてみせる。そして私の隣にドサリと座り込んだ。もはや怒りを通り越して諦めを感じているのか、言葉の勢いが少し落ち着いたようだ。
「これじゃ、ギターの持ち主も浮かばれないわ。山で泣いてるかも」
「……山?」
私は話にそぐわない単語に思わず聞き返す。
「言ってなかった? あのギターねぇ、ほら、パート先の岩崎さんの妹さんからもらったんだけどね、息子さん、山で滑落しちゃったのよ」
「か、滑落!?」
「もう十年前らしいけどねぇ」
その瞬間、私はバッと母の方を向く。
「それはノンデリ! ありえない!」
「ノンデ……何それ」
母は聞きなれない単語に聞き返してくる。
「ノンデリカシー! 無神経ってこと!」
「はぁ? 大体、なんでもかんでも略してあんたは言葉ってもんの大切さが……」
「そういう話してないし」
「言葉の乱れは心の乱れって言ってね」
「今はギターの持ち主の方が重要」
母の話をまとめれば、エリザベス……あのギターは知らない人の遺品ってことだ。そんな大切なものを預けられたことも気が重いし、何より気味が悪い。
「なんで? ギターはギターでしょう」
「あーもう、ほんとノンデリ!」
私がリビングの扉をバンと開けると、父がすぐ横に立っていた。おそらく全て聞いていたのだろう。
父は目を泳がせた後、「じゃ」とトイレに入っていく。
私はその様子にイラッとしながら、階段を駆け上がり、自分の部屋に閉じこもる。
部屋の隅のギターが目に入る。ピカピカに磨かれたネックの部品も、持ち主の息遣いを感じるような気がして今は恐ろしい。
私は目をそらして、ベッドの中に潜り込む。毛布の隙間がなくなるように、ぎゅっと体を縮めることも忘れなかった。
その夜、私は夢を見た。
私はどこかの川で倒れている。上半身の下はゴツゴツと硬い岩場、下半身は水に浸かって感覚がもはやない。
あちこちがひどく痛み、動くことはできず、喉は乾ききって声も出ない。苦しさから私はヒューヒューと喉を鳴らす。
なんとか動く視線だけで周囲を見回すと、すぐ近くに崖がそびえていた。
おそらく、あそこから落ちたのだろう。
ふと視界の隅から、知らない男が私を見下ろしているのに気づく。男の表情は淡々としていて、どこか物悲しげな雰囲気が漂っていた。
私がその男をぼんやりと見つめていると、彼の口がわずかに動いた。
「……ギターは無理に弾くものじゃない」
その言葉が夢の中で響くと、私はハッと目を覚ました。足元には、あのギターが静かに置かれている。ベッドから急いで起き上がり、そっとギターに触れると、あの男の言葉が私の心の中で反芻された。
―ギターは無理に弾くものじゃない―
その言葉は、どこかさみし気な響きを持ち、私の心の奥深くで何度も反響し続けた。
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