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「ねえ、知ってる? アントワネットループのマリー、メジャーデビューするんだって」
京子は数学の授業中、横から私にささやいた。「マリー」の名前に私は心臓をつかまれたようだった。だが、顔に出さないように、ノートを取りながら平静を装う。
「でも、今、休止中じゃん」
「馬鹿だなぁ。違うバンドでってことよ」
違うバンド。私はその言葉に反応して、思わず京子の方をじっと見つめる。
「……え?」
「そんなこの世の終わりみたいな顔しないで。インディーズバンドではよくある話だよ」
よくある話と言われても、私はその言葉を受け入れるのが難しい。
「次のバンドは、イソップ・ビバップって言うんだって」
「イソップ・ビバップ……」
私は先生に見つからないように、机の下でこっそりとスマホを取り出し、検索を始めた。指が震えながらも、イソップ・ビバップと入力し、検索結果をスクロールする。すると、すぐにアーティスト写真が目に入った。
写真の中のマリーは、黒髪で清楚な雰囲気を漂わせていて、アントワネットループ時代の彼女とはまったく異なる姿だった。その変貌ぶりを、私はただ呆然と見つめるしかなかった。
かつての彼女は金髪で、ナイフのような鋭い視線で観客を見据えていた。いったい、彼女に何があったのだろう。どこで、その姿を捨ててしまったのだろう。
画面をさらにスクロールすると、次回のライブ日程が記されていた。日付を確認しながら、私は決心した。マリーに直接話を聞くために、必ずそのライブに行くと。
そしてイソップ・ビバップのライブ当日。私は一番のお気に入りのワンピースを身にまとい、アントワネットループのリストバンドを腕につけた。
期待と不安が入り混じる中、ライブは始まった。
演奏は確かにうまかったが、アントワネットループの時のかっこよさや鋭さはない。曲調はかわいらしく、歌詞は砂糖菓子のようにふわふわと甘かった。
それはマリー自身の変化と同じように感じる。
かつてのギラギラしたライトも、悲鳴のような歌声もここにはない。あるのは、ただひたすらに甘ったるい幸福だけだ。
ライブ終了後、私はマリーに理由を尋ねるために、ホールで出待ちをしていた。すると、黒髪のマリーが姿を現した。
あまりの変貌に、私は一瞬目を見開く。
髪色だけではない。メイクも可愛らしさを強調したものになり、かつての鋭い雰囲気はどこにも見当たらなかった。
「マリー……さん」
マリーは私の呼びかけにゆっくりと顔を上げる。
次の瞬間、マリーははじけるような笑顔を浮かべて、私に言う。
「わ、私の名前覚えてくれたの? 嬉しいです!」
その瞬間、私は全てを悟った。
マリーが私の名前を呼んだことが一度でもあっただろうか。マリーは私のことなんて覚えていなかった。私はただの観客にすぎなかったのだ。
その事実に私は顔から火が出るほど恥ずかしい気持ちが湧き出してくる。全てをわかった気になって、勝手に期待して、私はなんて身勝手だったんだ。
その時、横から壮年の男性が声をかけてくる。
おそらく、イソップ・ビバップのプロデューサー的立ち位置の男性なのだろう。途端にマリーはペコペコと頭を下げ始めた。
「マリーくん。今日のライブ、よかったよ」
「堀井さん、わざわざありがとうございます。ほんと、堀井さん無しでは今日のライブは無理でした」
そう言ってマリーはかつて私に向けていたやわらかな笑みを、堀井という男に向ける。
こんなマリーは、見たくなかった。こんなマリーは、私の知っているマリーじゃなかった。
私は挨拶もそこそこに、ライブハウスから走り去る。きっともう、ここには来ないだろう。もう、あの日のマリーはいないんだ。
私は家に帰るなり、ギターを手に取った。もう気味の悪さなんて感じない。あの日のマリーの音楽を、私は残したかった。
マリーがいなくても、アントワネットループがいなくても、私はあの日、私の胸を打った音楽を無くしたくない。
弦に指を触れた瞬間、硬くて冷たい感触が指先に伝わる。最初に鳴らした音は、少し不恰好で、響きも不揃いだった。でも、その不完全さの中に、私の音が確かにあった。ぎこちない動きの中でも、次第に音が重なり合っていくたび、胸の奥が熱くなっていくのを感じた。
私は『友よ、あの日まで』を何度も繰り返し弾き続ける。正直、形になんてなっていない。それでも私はかまわなかった。
指先が切れて血が出ても、腕が疲れて震えてきても、私は弾くことを止めなかった。
気づけば、私の瞳からは涙が零れ落ちていた。けれど、私はその涙を拭うこともせず、ギターを弾き続ける。
泣いて泣いて、泣きつかれて、ギターを持つ気力すらなくなった時、私はようやくギターを弾くことを止めた。
さよなら、アントワネットループ。さよなら、マリー。
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