家庭妻園

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※  俺がリビングに入ると、 「おかえり」  窓際で正座していた女が口を開いた。 「た、ただいま」  ぎこちなく返してから、 「どうにも慣れないなぁ」  ソファに身を沈める。この不思議な女が現れてから丸一日が経っていた。昨夜は一睡もせず説明書を読み返したものの、植物が本物の人間のように振る舞えている原理すら謎のままだ。 「一体何が何やら……」  首を捻っていると、短パンのポケットが震えた。スマホを取り出す。不倫相手からメッセージが届いていた。 「そういえば返事、忘れてたな」  トークアプリで文章を打とうとした、その時、 「おかえり」  耳元で囁かれて息が詰まる。気づけば女が隣に座り、俺の表情を覗き込んでいた。 「……びっくりした、何だよ急に」 「おかえり、あなた」 「はいはい、ただいまただいま、これで満足か?」  女は体の向きを変え、花の甘い香りを振り撒きながら離れていく。 「何だよ、気持ち悪いな」  立ち上がり、洗面所に向かった。洗面台で顔を洗い、手を伸ばした。が、 「タオルがない?」  濡れた目元を袖で拭い、何も掛かっていないタオルハンガーを睨む。 「タオルがないんだけど?」  俺は声を張った。近づいてきた気配に振り返る。背後には女が立っていた。 「妻なんだろ? 用意しといてくれよ」  口を尖らせるも、女は小首を傾げるだけだった。俺は舌打ちする。 「もういい、風呂に入るから」  ざらついた樹皮の背を押し、女を廊下に追い出した。脱衣所の引き戸を閉め、服を脱ぎ、浴室へと入る。 「まったく……」  肩から湯をかけ、シャワーで頭を濡らす。続けてシャンプーボトルのノズルを押すも、 「おいおい」  手応えの無い感触。 「何で詰め替えといて……」  俺は項垂れた。 「しょせんは植物ってわけか、これくらいうちの妻でもすぐ用意して」  口を(つぐ)む。背筋に走った悪寒。振り返り、俺は目を見開いた。 「おかえり」  ガラス戸の隙間から女が覗いていた。暗がりの中、つるりとした女の顔が浴室照明の光を鈍く反射していた。 「お、お前」  声が震えた。が、構わず女は、 「おかえり」  抑揚のないトーンを浴室に反響させる。 「やめろ」 「おかえり」 「やめてくれ」 「おかえり、あなた」  乱暴にガラス戸を閉じた、その時、危うくバランスを崩しそうになる。顔を上げた。何と、女が無理やり浴室に押し入ろうとしていた。俺はガラス戸を押さえる。激しい衝撃が何度も全身を襲った。 「おかえり、あなた、おかえり、あなた、おかえりおかえりおかえり……」  女が繰り返しながらスリガラスを叩く。 「もうたくさんだ! どっか行け!!」  恐怖のあまり叫んだ、直後、水を打ったような静寂が訪れた。目を細める。スリガラスに浮かぶ影が静止していた。 「なんで」  くぐもった女の声。俺は耳を澄ませる。 「『ただいま』って、いってくれないの?」  急に弱々しくなる女の態度。 「わたしはあなたのつまなのに」  俺は呼吸を整え、口を開いた。 「違う、お前は俺の妻なんかじゃない」 「あなたがたねをまいた、わたしをつくった」 「ちょっとした気の迷いだったんだよ」 「いえのつまも、そとのつまも、きのまよい?」  生唾を飲んだ。俺が押し黙っていると、 「ちがうよね、だから」  女が声を震わす。 「ちゃんと『おかえり』はいってね?」  その言葉を最後に、何も聞こえてこなくなった。俺は恐るおそるガラス戸を開く。脱衣所に女の姿はなかった。 ※  
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