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俺がリビングに入ると、
「おかえり」
窓際で正座していた女が口を開いた。
「た、ただいま」
ぎこちなく返してから、
「どうにも慣れないなぁ」
ソファに身を沈める。この不思議な女が現れてから丸一日が経っていた。昨夜は一睡もせず説明書を読み返したものの、植物が本物の人間のように振る舞えている原理すら謎のままだ。
「一体何が何やら……」
首を捻っていると、短パンのポケットが震えた。スマホを取り出す。不倫相手からメッセージが届いていた。
「そういえば返事、忘れてたな」
トークアプリで文章を打とうとした、その時、
「おかえり」
耳元で囁かれて息が詰まる。気づけば女が隣に座り、俺の表情を覗き込んでいた。
「……びっくりした、何だよ急に」
「おかえり、あなた」
「はいはい、ただいまただいま、これで満足か?」
女は体の向きを変え、花の甘い香りを振り撒きながら離れていく。
「何だよ、気持ち悪いな」
立ち上がり、洗面所に向かった。洗面台で顔を洗い、手を伸ばした。が、
「タオルがない?」
濡れた目元を袖で拭い、何も掛かっていないタオルハンガーを睨む。
「タオルがないんだけど?」
俺は声を張った。近づいてきた気配に振り返る。背後には女が立っていた。
「妻なんだろ? 用意しといてくれよ」
口を尖らせるも、女は小首を傾げるだけだった。俺は舌打ちする。
「もういい、風呂に入るから」
ざらついた樹皮の背を押し、女を廊下に追い出した。脱衣所の引き戸を閉め、服を脱ぎ、浴室へと入る。
「まったく……」
肩から湯をかけ、シャワーで頭を濡らす。続けてシャンプーボトルのノズルを押すも、
「おいおい」
手応えの無い感触。
「何で詰め替えといて……」
俺は項垂れた。
「しょせんは植物ってわけか、これくらいうちの妻でもすぐ用意して」
口を噤む。背筋に走った悪寒。振り返り、俺は目を見開いた。
「おかえり」
ガラス戸の隙間から女が覗いていた。暗がりの中、つるりとした女の顔が浴室照明の光を鈍く反射していた。
「お、お前」
声が震えた。が、構わず女は、
「おかえり」
抑揚のないトーンを浴室に反響させる。
「やめろ」
「おかえり」
「やめてくれ」
「おかえり、あなた」
乱暴にガラス戸を閉じた、その時、危うくバランスを崩しそうになる。顔を上げた。何と、女が無理やり浴室に押し入ろうとしていた。俺はガラス戸を押さえる。激しい衝撃が何度も全身を襲った。
「おかえり、あなた、おかえり、あなた、おかえりおかえりおかえり……」
女が繰り返しながらスリガラスを叩く。
「もうたくさんだ! どっか行け!!」
恐怖のあまり叫んだ、直後、水を打ったような静寂が訪れた。目を細める。スリガラスに浮かぶ影が静止していた。
「なんで」
くぐもった女の声。俺は耳を澄ませる。
「『ただいま』って、いってくれないの?」
急に弱々しくなる女の態度。
「わたしはあなたのつまなのに」
俺は呼吸を整え、口を開いた。
「違う、お前は俺の妻なんかじゃない」
「あなたがたねをまいた、わたしをつくった」
「ちょっとした気の迷いだったんだよ」
「いえのつまも、そとのつまも、きのまよい?」
生唾を飲んだ。俺が押し黙っていると、
「ちがうよね、だから」
女が声を震わす。
「ちゃんと『おかえり』はいってね?」
その言葉を最後に、何も聞こえてこなくなった。俺は恐るおそるガラス戸を開く。脱衣所に女の姿はなかった。
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