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映画の後は、普段二人では行かないような洒落たイタリアンレストランで遅めの昼食をとった。
博人はヤリイカとドライトマトのリングイネ、私はサルシッチャのアマトリチャーナ。
何年経っても食の好みはお互い変わらない。
レモン入りのミネラルウォーターが口の中を爽やかに冷やし、何気ない会話をより弾ませる。
いつもだったら大半は明里の話で占めるが、今日は違った。
さっき観た映画のとりとめない感想や、最近読んだ書籍について、昔二人で聴いた思い出の音楽。
そんな話をするのはとても久しぶりだった。
楽しそうに饒舌に語る博人の眼差しは理知的で豊かな光を宿していて、何故私が彼に惹かれたのかを思い出していた。
宝箱を開けた瞬間のような眩さを堪能しながら、耳を傾ける。
「海に行かないか?」
そんな博人の予想外の提案に、目を見開いた後微笑んで頷いた。
渋滞にはまりながら、三時間ほどかけて熱海に到着。
もうすっかり夕方で、暮れなずむ空が淡いグラデーションを描き、月を迎え入れているところだった。
サンデッキをゆっくりと歩き、ライトアップされた景色を楽しんだ後、浜辺で海を眺める。
「海見るの久しぶりだな」
「そうね」
ここへは何度か家族で訪れていた。遊覧船に乗ってユリカモメに餌をあげたり、砂遊びしたりと思い出がたくさん詰まっている。
振り返り、砂浜についた二人の足跡を見つめた。
共に歩んできた今までの長い道のりと重なり、鼻の奥がつんとする。
ここまで来たんだ。しみじみそう思う。
「……ねえ、博人」
再び視線を海に戻す。
小さな波が絡み合い、やがて大きく揺らめく様子があまりにも綺麗で、しかし残酷で、唇を噛みしめた。
勇気を出して博人を見上げる。
「……明里って、昔の恋人の名前なの?」
博人はハッとしたように目を見開き、微動だにしない。
私は努めてなんてことのないふうを装って、「別に責めてるんじゃない」と微笑んで見せた。
彼が娘につけてくれた名前の由来を知ったのは、『あかり』という女性から私に電話がかかってきたからだ。
まだ明里が10歳になったばかりの頃だった。
『あかりさん』は、博人との関係が続いていること、密かに逢瀬を重ねていることを私に悪びれもなく伝えた。
私はしばらく絶望とやるせなさに打ち拉がれ、誰もいない部屋で泣き喚き、嘔吐も繰り返した。
……それでも、博人には言わなかった。私と娘には彼が必要だったし、家族を壊すほどの勇気も力も当時の私は手にしていなかったから。
私は博人を愛していた。
だけど愛されないことの悲しみを抱きながら、今まで歯を食いしばって生きてきたのだ。
「私達、別れよう」
娘が二十歳になったら、別れようと決めていた。
その前に、あと一回だけあなたと恋をしてみたかったの。
ポーチの中から小さく折り畳んだ離婚届を取り出して、彼にそっと差し出す。
博人は今まで見たこともないような頼りなさげな顔をして、じっと私のことを見つめていた。
「今までありがとう」
どんなに歪で粗雑でも、私達の日々は紛れもなく尊いものだった。
彼に恋をしたこと、彼を愛したことに後悔はない。
だけど私は、新しい道を歩んでいくことに決めた。
「麻紀……」
名前を呼ばれてももう振り返らない。
覚悟を決めるようにして、音を鳴らして砂を踏みしめた。
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