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それから三十年ほどの月日が流れ、私はすっかりおばあちゃんとして明里の家族と共に暮らしている。
二人の孫は成人し、明里も今では子育てを成し遂げた立派な母親であり、苦楽を共有できる同志のような存在だ。
博人とは、もう十何年も会っていない。
私はあの後家を出て、一人暮らしをしながらアパレルメーカーの会社に勤め第二の人生を満喫していた。
日々、苦しいことや寂しさが募る夜もあったけれど、概ね自分の生き方に満足している。
しかし人生の終わりが近づく中で、心残りのようなものが芽生えた。
博人の笑顔と、別れ際に見た心許ない寂しげな表情が脳裏に浮かんでは、遠い記憶を少しずつたぐり寄せて胸をざわつかせているのだった。
何度も悩んだ末、ついに私は連絡先を知っている明里に頼んで博人の居場所を調べ始めた。
彼は重い病気と認知症を患っているそうで、都内の大学病院に入院しているとのことだった。
その事実はあまりにも残酷で、益々焦燥感を駆り立てられる。
私の人生の集大成に、彼と会うことを選んだ。
明里の夫に車で連れて行ってもらい、博人が入院している病院へ向かった。
とても晴れやかな早春の日のことだった。
しんと冷えた、けれども清々しい空気を静かに吸って、あの別れの日のように覚悟を決める。
真新しい黒いスカートを揺らし、少し曲がった背中で杖をつきながら、小さなメモを頼りに病室を探した。
ゆっくりとした足取りで、四人部屋の一室に入る。
病室内はとても静かで、それぞれがベッドに横たわっていた。
恐る恐る歩みを進め、窓際のベッドに彼を見つけた瞬間、可笑しな胸の高鳴りに戸惑う。
「……博人さん」
小さな声で呼びかけると、彼はおもむろに起き上がった。
だいぶ薄くなった白髪と、皺くちゃになった顔。それでも怜悧な眼差しはあの頃と変わっていない。
懐かしくて、だけどとても切なかった。
「博人さん、久しぶり」
「………………」
彼は何も言わず、じっと私を見つめている。
その瞳にはしっかりと光が宿っていて、安堵で涙が出そうになる。
「……ああ……」
彼は私に向かって幸福そうに微笑んだ。
まるで、出会った頃の恋する彼のままで。
「……なんて美しいんだ。僕の恋人になってくれないか」
胸に染みついて離れなかった低い声が耳を震わせて、涙を人差し指で拭いふっと微笑む。
私の人生がもう一度動き出していくのを、穏やかな気持ちで受け入れ始めていた。
「あと一回だけですよ」
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