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「ねえ、私達あと一回だけ恋してみない?」
勇気を出して提案した。
ダイニングの向かい側に座る夫の博人は、困惑した表情でマグカップを持つ手を止める。
「……何言ってんの」
こんな反応をするのは予想ができていたので、私は怯まない。
「いいじゃない。明里も自立したことだし、私達も第二の人生楽しもうよ」
一人娘の明里が今年二十歳を迎え、東京で一人暮らしを始めた。
つまり二十年ぶりに夫婦二人の生活が始まったのだ。
私も博人も48歳。まだ人生を謳歌する余裕がある。
「それとも、もう私とじゃ恋できない?」
それなりに身なりは気にしてきたつもりだったけれど、年齢には抗えない。
……それでも、いくつになっても博人に女性として見てもらいたい気持ちは今までずっと胸の奥底で燻っていた。
「いや……」
博人は真っ赤になってごにょごにょと言葉を濁し、不自然にコーヒーを啜る。
まるで初めてデートをした日みたい。
あの日の博人、緊張のせいかやけに口数が少なくて。
「……どこか出かけるか」
照れ隠しのように視線を逸らしぽつりと呟く博人に微笑む。
「待ってて。着替えてくる」
躍るように軽やかに寝室へ向かい、とっておきの新しいワンピースに袖を通す。
こんな気持ちは久しぶりだった。
今までとは違った角度から、私の世界が動き出していく感覚に胸を躍らせる。
鏡の中で微笑む私はあの頃とは随分変わってしまったが、それでも希望に満ち溢れた顔をしていた。
博人が車を出してくれて、私達は最初に映画館へ向かった。
初デートで訪れた場所だ。
今はすっかり現代風に改修されて当時の面影はないけれど、映画館特有の高揚する匂いは変わっていない。
「ポップコーン買う?」
そんなふうに尋ねる彼にくすっと笑う。
「博人、ポップコーン好きだもんね」
途端に博人の顔が赤らんだ。
普段「お父さん」「お母さん」と呼び合っていたから、名前で呼ばれるのが新鮮なのかもしれない。
「……麻紀はアイスコーヒーでいいか?」
さり気なくそう言われ、くすぐったい気持ちになりながら頷いた。
選んだ作品は、邦画のヒューマンドラマ。
観たい映画の種類も、長い年月をかけて少しずつ変わった。
当時ヒロインだったアイドルが、貫禄ある演技で母親役を全うしている姿を、感慨深く見つめていた。
ふいに重なる手に驚いて見上げると、照れた表情でスクリーンを見つめる横顔があった。
幾度となく繋いできた博人の左手はあの頃と変わらず温かく、胸を甘く切なく締めつける。
まるで私の手のひらに染みついていた博人の肌の質感が、ありありと蘇るような感覚に少し涙が出そうになった。
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