泡のふたり

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 遺体さえ浮かび上がらないのだから、いっそのこと本当に魚になったのだと思った。  そうだ、だから。 「キミのこと……(あおい)本人じゃないかって、今もどこかで思っているんだ」  そう呟くと、人魚はしゅんと顔をしおらせる。 「ごめんね、おれはその碧って人じゃない。その人はね、海に浮いてた。とっても綺麗な顔でね、人間になるならこんな顔がいいって思ったの」 「その碧は、浮いていた碧は、どうしたんだ」  尋ねると、人魚はぱたりと口を閉ざしてしまう。ひんやりとした彼の腕へ(すが)るように触れると、その長いまつ毛が音も無く(またた)いた。  蒸し暑い夏の空気が、僕たちを覆う。 「食べた」  人魚はただ一言、そう言った。  僕がその顔を見上げると、海水を滴らせながら彼は少しだけ尖った歯を覗かせる。 「嘘ついたの。ごめん。眺めたあとね、食べちゃった」 「なんで」 「食べないとそっくりになれないの。遺伝子を飲み込むの、体に染み渡らせるの。僕たちはね、そうやって人間に近づくの」 「なんで、人間なんかに」 「綺麗だから」  人魚は迷いなくそう答えた。  ひたりひたりと手のひらを這わせるようにして、僕の肌に触れてくる。 「人間、綺麗だから。寿命減っちゃうけど、なりたいの。でも」 「でも?」 「……完全に人間になろうとしたらね。あと1回、食べなきゃダメなの。上半身、下半身。変化しきるのに、2回食べなきゃダメだから」 「僕のことも……食べるのか」  恐る恐る喉笛を震わせながら呟くと、人魚はしなやかなヒレで僕の背を絡めとるように引き寄せて、 「宇海は僕の友だちだもん。食べないよ。……でもね、ずうっと機会をね、待ってるの」  真っ黒な瞳を細める微笑む彼。その顔があまりに碧そのもののように思えて、どくんと僕の心臓が音を立てる。  彼はベッと可愛らしい舌を覗かせた。 「あと1回だけ、人間を食べるとね。このヒレがね、足になるの。そうしたら歩けるの。人間になれるの」  そっと彼の鱗に触れてみる。手のひらの皮膚が裂け、あみだくじのように赤い血が鱗の隙間を()っていく。  
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