愛のスキマを歩く

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 寒い地の果て。本州の最北端である青森県に来ていた。とにかく、北へ北へと逃げたかった。南の暖かくて過ごしやすい場所なんかよりも、身も心も凍えてしまいそうなほどの冷たい土地のほうが今の私には合っているような気がした。青森県になにか思い出があるわけではない。ただ、生きにくい土地で、一人で生きてみたかった。すべてを忘れたかったのかもしれない。  目的の駅に着いて、私はスーツケースを引きながら新幹線を降りた。中身は数日分の着替えと結婚前の貯金が入った通帳、ハンコ、身分証明書。  家には置き手紙をしてきた。 「ごめんなさい。私はもう頑張れません。探さないでください」  それだけ。本当はもっと書きたい言葉があった。誤解が生まれないように書こうと思えば、長文の手紙になってしまうこともわかっていた。でも、あえてそうしなかった。私がいなくなったあの家であの二人が存分に困ればいいとすら思った。そう思ったが、きっとそうはならないこともわかっていた。私がいなくたってあの二人は困らない。すぐに新しい生活に慣れるのだろう。私の存在なんかすぐに忘れてしまうかもしれない。  ホームに降り立つと、十月とは思えないほど強烈な寒さが襲った。新幹線の中でぬくぬくと過ごしていたため、一瞬で身体の熱を奪われる。青森県に来るには薄着過ぎたかもしれない。切符を取り出して、改札を通り抜ける。外には雪が積もっていた。こんなにも早く降るものなのかと驚く。みんながブーツを履いて歩いている中、私一人だけがスニーカーだった。どうしようかと考えていると、掃除道具を持ったおばさんに声をかけられた。 「こった雪の中スニーカーであさぐなんてバカだの。早ぐブーツに履き替えだほうがいいよ。コンビニでも買えるはんで」  これがいわゆる津軽弁というものかと感動した。もっと何を言っているのかわからない方言かと思っていたが、意外と聞き取れたことに驚く。だが、本当に東京の方で話している言葉とイントネーションも話すスピードも違って、面白かった。ただ、あさぐの意味だけがわからなかった。 「ありがとうございます。助かります」 「観光で来たの? それとも引っ越し? 雪国だはんでたげだばって、青森はいところだば」  なにを言っているのかがほとんどわからず、笑ってしまいそうになる。 「引っ越しです。まだ仕事とかはこれから探すところです」 「そうかい! けっぱっての!」  おそらく応援してくれているのだろう。大きく手を振りながら見送ってくれるおばさんに頭を下げて、私は外に出た。いろんな人が歩いた跡にうっすらと雪が積もっている。新雪だったら歩くのも楽しいのにと思いながら、青森県の土地に一歩踏み込んだ。いろんな人が往来していたのだろう。どこまでも続く足跡を追うように私は歩き始めた。  佑真さん。愛。ごめんね。  私はこの地で、新しく生きていこうと思います。二人のことが嫌いになったわけではありません。ただ、これが最善策だと私は思うのです。後悔はしてません。いつか、後悔するときが来たとしたら、それは自分の罪だと受け入れます。  こんな言葉を送りたかったのだと、今になって気づく。もう二人に愛してると伝えることもないのだ。手紙に愛してるだけでも書いてこれば良かったなとすぐに小さな後悔が押し寄せた。  頭に積もっていく雪を手で払って、私は深くフードを被った。
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