愛のスキマを歩く

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 優秀な愛は勉強を教えてと頼んでくることもなかった。丸つけを私に任せることがなくなった。 家族との会話が減って、愛は学校生活に集中し切っていた。愛の夢を叶えるために、あの時話した言葉が足枷になっているのではないかと不安になっていた。今の愛はきっと、つらくても、苦しくても、私たちを頼ってくれることはないだろう。一人でお気に入りのぬいぐるみを抱きしめて濡らしているのかもしれない。完全防音のピアノの部屋で泣き叫んでいるかもしれない。 愛に頼られなくなったことで、私は自分のやるべきことがわからなくなっていた。話しかければ、愛はいつだって楽しそうに学校のことを話してくれるのに、私は卑屈になっていた。もう私の手なんて借りなくても十分生きていけるのかもしれない。そう考えるだけで息が詰まりそうになった。手が掛からなくなるということが、こんなにも不安になることだとは想像すらできなかった。 二学期も半ばになった頃、愛から授業参観の案内を渡された。 「みんなでね、作文を発表するの。だから、絶対見にきてね」  嬉しそうな顔でそう誘われて断れるはずもなかった。佑真さんにも参加するかを確認すると、その日はどうしても休めないと話していた。  私は自信がなかった。優秀な家系で育った母親たちが集まるのだと思うと、自分は場違いな気がした。入学式の日は佑真さんがいたから、それを意識することはなかったが、学歴などでマウントを取られたらどうしよう。ママ友とうまくやれるかな。なんて心配をしていた。  そして、いつの間にか授業参観当日になっていた。登校する前に愛から「待ってるからね! 絶対に来てね!」と強く念押しされた。授業が始まるのは午後からだったが、朝から私は身支度をしていた。絶対に低レベルの母親だと思われたくない。その一心で、今までやっていた華やかなメイクとは対照的な顔になった。下地とファンデーションはツヤのあるものを選んだ。控えめなブラウンのアイシャドウ。ラメは使っていないマットなものを瞼にのせる。アイラインは気持ち程度の長さでつり目にする。眉の存在は薄くなるように仕上げて、キツイ印象を与えないようにした。口紅も、華やかすぎないナチュラルな色味のものを乗せる。髪型も自分で編み上げて、まとめ上げた。黒のワンピースにパールのネックレスとピアスをつけたら完成。  姿見の前に立って、おかしなところがないか何度も確認した。できるなら誰かに採点なり評価をもらうなりしたかったが、生憎そんな相手はいない。時間が近づいて、家を出ると授業が始まる前の十分休憩の時間に教室に着いた。まだ休み時間ということもあって、親は教室に入っていない。廊下で愛が出てくるのを待ったが、結局姿を見せることはなかった。  そして、先生からの合図があって親たちが一斉に教室の後ろに入った。愛の後ろ姿を探していたが、入学式のあの日のあと席替えをしたらしく、簡単には見つからなかった。キョロキョロしていると、なんとなく視線を感じた。そちらに顔を向けると、目が合った愛が嬉しそうに手を振っていた。喜んでくれて良かったと安心する。だが、その反面。私は両隣に並ぶ自分よりも年上の親御さんたちにこれまでにないぐらい緊張していた。なぜなら、みんなが私のことをチラチラと見ていることに気づいたからだ。六歳の母親としては若すぎるのだろう。きっと、何か事情があって……の事情の部分を勝手に推測しているに違いない。その証拠に、近くにいる親同士で会話が始まっているのに、私に話しかけてくる物好きは一人としていなかった。
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