愛のスキマを歩く

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「……というテーマで作文を書いてもらいました。これから窓側の前の席から一人ずつ発表してもらいますので、親御さんたちは静かに耳を傾けてあげてください」 どんなテーマなのかを聞きそびれてしまった。集中しよう。窓側ということは、愛の順番はすぐだった。どんな発表をしてくれるのだろうと期待が膨らむ。やはり、小学生らしく将来の夢について語ったりするのだろうか。それとも今後の目標や、これまでの思い出について話すかもしれない。愛がどんな言葉を原稿用紙に書いたのか。すぐに聞けるというのに、私は待つことすらできなくなってしまいそうだった。緊張に似たそわそわ感が手を握ったり開いたりを繰り返させている。  そして、すぐに訪れた愛の出番。録画したい気持ちを抑えながら、私は身構えていた。 「矢城愛」  始まる。 「私の家族はまんまるです。パパはいつもたくさん仕事をしています。家族のためだって何回も教えてくれました。でも、私は寂しいです。もっとたくさんパパと遊んだり、お話ししたりしたいです。でも、仕事の邪魔はしたくないので愛は我慢します。パパが暇なときに愛から話しかけて遊んでもらいます」  寂しかったんだと初めて気づく。確かに愛の受験を意識するようになってから、佑真さんは冷たくなっていたかもしれない。それ以降、変わったように見えていたが、愛には物足りなかったのだろう。気づいてあげられなかったことを、申し訳なく思う。 「ママは優しいです。でも、それだけです。パパはかしこくていろんなことを教えてくれるけど、ママはいつも見ているだけです。ピアノの練習も、勉強も、ママはほとんど手伝ってくれないので自分で頑張っていました」  耳が痛くなった。こんな大勢の前で、私が来ていることをわかっていて、なんてことを言っているのだろう。視線の数が一気に増える。私、無能だと思われている。 「私は……」  愛の口から出てくる残りの言葉を待ちきれずに私は教室を静かに出て行った。本来なら最後まで聞いていくべきなのだろう。それでも私は耐えられなかった。周りから感じる嘲笑の視線に立っているのも精一杯だった。通っていく教室すべてから子どもの明るい声で親を褒める言葉が廊下に響いている。  私は、愛にたくさんのことをしてきたはずだった。ピアノだって私が力になれないことはわかっていたから、優秀な先生がいるところを探した。勉強だって愛が自分から進んでやっていくものだから、私の出番がなかっただけだ。丸つけのときに一緒に積み木を組み立てたあの時間はなんだったのだろう。私は愛の力になれるように頑張ってきたはずなのに、何ひとつ伝わっていない。  なにがまんまるだ。あんなトゲだらけの言葉で発表をして、愛は私になにを聞いて欲しかったのだろう。私を大勢の前でバカにして笑われるところが見たかったのだろうか。あんな作文の最後に「それでも私は家族が大好きです」なんて甘い言葉が書かれているとは思えなかった。  なんのためにここまで来たのだろうと考えながら帰った。バスに乗る気分にもならなくて、徒歩で一時間かかった。メイクも落とさず、寝室に向かった。ワンピースに皺がつくことも考えず、ベッドに飛び込む。ついこの間まで、ここで、三人で、寝ていたのだ。愛は成長した。私は、退化しているのだろうか。誰かのために生きることができない人間だということはわかっていた。だからこそ、必死に意識してきた。自分のためではなく、愛のためになるようにと。  なにも伝わっていなかった。自分の今までの努力がすべて無に還ったような気がして、涙が溢れた。愛のために頑張っていたんだよと伝えたい。確かに私は佑真さんと比べれば無能なのかもしれない。それでも、必死にやってきた。愛を自分の子どもとして愛する自信がなくても、人として愛せるように努力してきた。それなのに、愛の口からはあんな言葉しか出てこなかったのだ。あぁ、死んでしまいたい。もう、愛の顔など見たくない。これから、愛はもっと成長していく。時間が経つごとに一人の大人へと一歩ずつ進んでいく。私はその力になれない。どんどん親元を離れていくというのに、私に一体なにができるというのだろう。  不意にスマホが光って、手に取った。佑真さんからメッセージが届いていた。 「愛の作文、どんな内容だった?」  私はこれに返事をすることができなかった。あなただけが褒められていたよ、なんて嫌味に聞こえるだろう。私はベッドから立ち上がった。
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