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月を歩く
庫裏(くり)で、深山一慶(みやまいっけい)住職が麦茶を出してくれた。
「暑いねえ、しかし。逸樹(いつき)くん、アイス最中食べるか?」
住職と言っても法衣は着ていない。シャガールが描いた「誕生日」という絵をプリントした黒地のTシャツに、アディダスのスリーストライプスが入った黒いジャージパンツ姿である。深山は短髪をがしがしと掻き、「暑いねえ」ともう一度笑った。
室瀬(むろせ)逸樹は「アイス最中、いただきます」と控えめに手を挙げる。無地の白いTシャツとデニムのワイドパンツが、本堂の掃除を手伝ったことで汗だくだくだ。
二十七歳だが、実家暮らしの逸樹。掃除は手慣れていなかったが、ここに来始めて、雑巾掛けが上手くなった。
入れたばかりの冷房が効き始めていて、辺りは少しひんやりとしはじめる。息をするのが楽になった気がして、逸樹は「ふは」と息を吐いた。
「逸樹くん、はい、アイス最中」
台所から箱ごとアイスを持ってきてくれたのは、近所に住む五十がらみの女性、大外育枝(おおそといくえ)さんだ。ボブにしたグレーヘアがトレードマークで、いつもカラフルなワンピース姿。今日はプラスチックのパールと白いビーズがあしらわれた、明るいピンクのワンピースを着ている。実は近くの大病院の看護師である。そしてここ、「安楽寺(あんらくじ)」の檀家さんでもあり、ときどき深山の顔を見に来るのだ。
「ありがとうございます、育枝さん」
逸樹が礼を言って、ひとつ取った。手のひらに包むと、冷たい感触。熱を奪ってとろりと溶け出すそれを、慌てて封を破ってかぶりついた。
大外が、深山に手早くアイス最中を差し出した。
「ごえんさん(浄土真宗の住職のこと)も、どうぞ」
「ありがとう、育枝さん。育枝さんも食べてってください。今、お茶淹れます」
のっそり立ちあがった深山は身長一八七センチほどある。がっしりとした体つきで、得度(僧侶になること)する前はスイミングスクールのインストラクターだったそうだ。ばりばりの体育会系である。
深山は、実家が寺ではない。二十歳のとき、仏教系大学だった出身校でお坊さんのカウンセラーからカウンセリングを受けたことをきっかけに、仏の教えを聞き、その教えを広めたいと在家から入寺した、ある意味レアな経緯を持つお坊さんだ。
深山が麦茶を注ぎに行っている間、大外と逸樹の会話に花が咲く。
庫裏は深山の趣味で飾られていて、黒い革のソファの間に格子模様のコーヒーテーブルや、大正期のガラスの飾り棚などが並んでいる。ソファに畏まって座っている逸樹に、大外が飾られた絵や、ジグソーパズル、人形を指差して説明を加えていった。
「この絵、前はなかったでしょう? パウル・クレーの『綱渡り芸人』。兵庫県立美術館でパウル・クレー展をやっていて、一目惚れして複製画をお迎えしちゃったんですって。ごえんさん、パウル・クレーがいちばん好きな画家だそうよ」
「へえ、知りませんでした」
深山のことは、まだほとんど知らない。出会って、三週間。たまに本堂の掃除を手伝って、お茶して帰る、それだけの関係だ。
ただ、深山はアートが好きで、自分でも絵を描く。それを聞いて、逸樹は親近感を覚えた。彼も小説や詩を書くからだ。絵心はないが、絵を観ることは好きだったりする。
ゆえに庫裏の飾り棚には、アメリカが生んだ伝説的ロック・ミュージシャン、ボブ・ディランの肖像画が飾られている。黒いペンで、細かい筆致で描かれた横顔。若いころの姿を描いた絵だが、その静かなたたずまいから老成しているように見える。
描いたのはなにを隠そう深山で、この絵を初めて見たとき、逸樹はボブ・ディランの顔も音楽も知らなかったのに、不思議と懐かしい気持ちになった。自分の心の奥底にうずくまる固く冷たいもの――逸樹はそれを「岩」と呼んでいて、それが自分の「芯」、「自分そのもの」なんだと感じている――にすら、沁み入ってくる絵だった。
要は、逸樹は自分を冷たい人間だと思っていて、深山の絵は、そんな人間の心すらあたためたのだ。
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