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翌日も男は当然のように食卓に居た。昨日よりさらに血色の良くなったニヤけ顔で、しげしげと俺を眺めている。屈辱だった。嘲笑われているような気がした。
だけどもっとショックだったのは、母さんが俺を完全に無いものとして扱ってきたこと。食卓には母さんの分と男の分、二人分の朝食だけが並び、俺の席には何も無かった。勇気を出した「おはよう」にも返事が返ってくることはなかった。
一方で母さんは、今日も親密な様子でチロさん、チロさんと男の世話ばかり焼いていた。その首にはまだ、生々しい傷痕が残っているというのに。俺は目を逸らし、唇を噛んだ。こんな男の何が大事だっていうんだ。母さんが作った朝食に手も付けない、こんな男の。
これ以上の屈辱は未だかつてなかった。学校までの足取りがこんなに重かったことも。
「おい、どうしたんだよ、稔。お前おかしいぞ」
「誰だ……誰なんだよアイツ……」
学校に着いてからも、俺の頭は昨日のことと今朝のことで一杯だった。なんなんだ、あの男は。一体何様なんだ。チロさんはチロさんなんて受け入れることは、俺にはできない。そんな名で親しくアイツのことを呼びたくない。誰なんだアイツは。
誰……誰……誰……誰……
「快くんは元通りになったのに、今日は稔くんの方がおかしくなっちゃったね」
快? そうだ、そういえば快も、昨日は「誰」って呟き続けていた。
快は「ただいまの呪い」にかかってたんだっけ? 確か、家に居る時に知らない声で「ただいま」って言われたら、絶対に「おかえり」って返事しちゃいけないっていう。もし返事しちゃったら、ヤバいものが玄関から家に入り込んじゃうっていう。
……もし。もし母さんが、「ただいまの呪い」にかかっているのだとしたら。俺が居ない間にアイツに「ただいま」と言われて、「おかえり」と返事してしまっていたとしたら。
そしてもし、呪いにかかった本人はかかっていることに気付かないのだとしたら。
そうだとしたら快の場合も、呪いにかかっていたのは快本人ではなく快の家族だったということになる。だから、快の家でも俺の家と同じようにヤバいものが入り込んでいて、しかも快の家族はソイツを当たり前のように受け入れていて、そのせいで快はおかしくなってしまっていた。そう考えれば辻褄が合う。
そうだ。きっとアイツは、母さんが一人の時を狙って「ただいま」と言ってきたんだ。それを、母さんは喧嘩していた俺が帰ってきたと思い込み、一も二もなく明るい声を作って「おかえり」と返したに違いない。俺の声と違うことに気付く余裕なんてなかったに違いない。
俺が昨日、母さんにババァなんて言ってしまったから。
泣きたいほどの後悔が襲う。喧嘩したまま、俺の母さんは俺のものでなくなってしまった。化け物に母さんを取られてしまった。取り戻したい。もううちの子じゃないと言われた俺が、母さんの家族に戻るにはどうすればいい。どうすれば母さんはもう一度、俺を見てくれる。
下校の時間がやって来た。心配する優也や綾女を振り切り、俺は教室を飛び出した。どうにかしなければと焦っていた。母さんを正気に戻す手立てなんて何もないというのに、足だけは真っ直ぐ家を目指す。
家に着いた俺は、おそるおそる鍵で玄関のドアを開け「ただいま」と言った。返事はない。靴を乱雑に脱ぎ捨て、廊下に上がり、居間へと向かう。正直、他人の家に上がるよりも緊張した。
家には誰も居ないようだった。母さんはおそらく仕事だ。アイツの方は、知らない。
俺はとりあえず、落ち着くためにインスタントのココアを淹れて食卓に座った。ココアを一口啜りながら考える。快に、相談してみるべきだったかもしれない。そうだ。追い込まれていて頭が回らなかったが、快は今日元気に戻っていたのだ。もしかしたら何らかの方法で問題を解決できたのかもしれない。
明日学校に行ったら聞いてみよう。そう思った、その時だった。玄関の方から「ただいま」と声がした。爽やかな声のテンプレートみたいな、それでいてロボットのように無機質な、低くてよく通る男の声だった。
間違いない。アイツだ。
全身の毛穴から汗が噴き出す。絶対におかえりと言ってはいけない。言ってしまえば、俺もただいまの呪いにかかってしまう。
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