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「うっぜぇな! ババァ!」
食卓をグーで殴って立ち上がる。がちゃん、と食器が音を立てて揺れる。
ババァなんて初めて言った。母さんは、見たことないほど悲しそうに顔を歪め、何か言いたげに俺を見上げていた。俺もまた、一度吐いた言葉を取り消そうかと口をもごもごしたが、結局何も言えず、食べかけの朝ご飯を残し家を出た。
きっかけはごく些細な言葉だった。どこの母親にもよくあるようなお節介。それをたまたま苛立っていた俺は過敏に反応し、ヒートアップし、つい思ってもない言葉で返してしまった。
母さんは10年ほど前、俺がまだ小学校低学年だった頃に事故で父さんを亡くして以来、女手一つで俺をここまで育ててくれた。感謝している。うざいなんて、ましてババァだなんて、思っているはずもない。
俺は後悔に後ろ髪を引かれながら高校に向かった。教室に入ると、優也と綾女が教卓前の俺の机を囲んで立っていた。
「はよー、稔……あれ? なんか機嫌わりぃ?」
「……別に。それよりなんで、俺の机に?」
「稔くんを待ってたの。快くんの様子が、おかしくてさ」
「快が?」
快は俺の親友だ。優也と綾女も含め、学校ではいつも四人でつるんでいる。
俺は教室の後方右端に目をやる。快は、机の一点をぼーっと見つめたまま何か呟いている。俺は自席から快の元へ向かった。
「おい、快? どうしたんだよ。調子悪いのか?」
「誰だ……誰なんだよアイツ……」
「快?」
「誰……誰……誰……誰……」
快は俺の問いに答えず、ただブツブツと呟き続ける。俺は諦めて席に戻った。
「どうだった?」
「なんか、『誰』ってずっと言ってる」
「だよね。私たちが話しかけた時もそうだった」
「何があったんだ?」
「それが分かんねぇから、稔を待ってたんだよ。稔も聞いてねぇのか?」
「何も」
「そっか……」
嫌な沈黙が流れる。はっきり言って今の快は不気味だ。意思疎通がはかれないし、目は虚。いつもの明るい奴とは別人のようだ。
しばらく黙っていると、綾女が口を開いた。
「……あのさ。『ただいまの呪い』って知ってる?」
「ただいまの呪い?」
俺と優也の返事が重なる。俺は聞いたことがなかったし、優也も同様らしい。「えっとね、」と綾女が続ける。
「最近女子の間で噂になってるんだけど。家に居る時、知らない声で『ただいま』って言われたら、絶対に『おかえり』って返事しちゃいけないんだって。もし返事しちゃったら、ヤバいものが玄関から家に入り込んじゃうんだって」
「は? なんの話だよ。今は快の様子がおかしいのが心配って話だろうが」
優也が少し怒ったように言う。綾女は肩をすぼめ小さくなる。
「えっと……つまり、快くんは『おかえり』って返事しちゃって、ただいまの呪いにかかっちゃったんじゃないかなって」
「は?」
「得体の知れない悪い何かが家に入って来ちゃったから、ずっと『誰』って言ってるのかもって」
「はっ! 馬鹿馬鹿しい!」
優也が吐き捨てるように言った。
「たぶん体調が悪いか、失恋でもしたんだろ」
「で、でも。じゃあ『誰』っていうのは?」
「さぁな。『好きな人がいる』とでも言われてフラれたんじゃねぇの。はい、この話おしまい」
「なんだよ。お前が心配って言ったんだろ」
「うるせぇ。どうせ昼飯の時間ぐらいには、いつもの快に戻ってるだろ」
優也はそう言ったが、結局その日一日快の調子は戻らなかった。
授業中も休憩時間も、快は机の端を見つめながらずっと「誰」と問い続けていた。
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