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見ろ、妻よ。この逞しい腕を。私は決して君を離さない。
見ろ、妻よ。このカモシカのような脚力を。私はお前を抱いて何処までも逃げの延びてみせよう。
無尽蔵のスタミナは私に息を切らせなかった。みるみる加速して焼夷弾を交わし、火の海を飛び越えた。燃える小屋はあっという間に遥か彼方だ。静かな草原とどこまでも広がる青空の中、私は駆けた。風が気持ちいいな、なあ、妻よ。
たんぽぽが咲き乱れる地に行き着いた時、妻が私の腕を叩いた。若かりし頃の、少女の顔が私を見上げていた。瞳に涙を溜め、穏やかな笑みを浮かべている。
「ありがとう。もういいのよ」
私の眼前にしわくちゃの妻の顔があった。
周りは既に炎に包囲され、黒煙が充満している。ベッドの上で横たわる私の傍らで、妻は穏やかに微笑んでいた。指輪のガラス玉に映るのはしわがれた老いぼれ老人だった。
そうか、夢だったのか。私の望みを神様が夢として叶えてくれたのだろう。
こんな細い腕では妻を抱き抱えることは出来ない。
「すまない。すまない……」
「何を謝るの?あなたはあたしを抱いて何処までも駆けてくれたじゃない。昔のあの頃の様に、あなたは逞しくてとても格好よかったわ」
「お前も同じ夢を見たのか?」
「夢なんかじゃないわ。あたしね、神様に願ったの。最後にあと一回だけ、あなたの腕に抱かれたいって」
柱が軋んでいる。屋根が崩れる。小屋の倒壊が始まった。
「私の願いも叶ったよ」
あれはきっと神様からの贈り物だったのだろう。
橙色に照らされた少女の様に笑う妻を、私は最後の力を振り絞って強く、強く、抱きしめた。
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