野良犬はこぼす

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野良犬はこぼす

 俺はこの年になって母親に叱られる子供を体験していた。  勿論、俺自身生まれてこの方母親の存在自体知らないので、母親として俺を叱っているのはエーデンだ。  親友イーオスの妻であり、俺の栄達の手助けをしてくれた恩義のある女性でもある。  つまり、俺は絶対に彼女に頭が上がらないのだ。  しかし、開口一番にこの馬鹿者と叱られては、俺は子供のように言い返すしかなかった。 「俺が何をしましたか?」 「胸に手を当てて考えてみなさい」  言われた通りに胸に手を当て、特段叱られるような思い当たることなどないので、俺は親友に助けを求めることにした。親友は怒れるエーデンの隣に座っているが、自分に助けを求めるなと目で言い返して来た。  彼は実家に里帰りする身重の妻の付添い人として存在しているだけらしく、親友である俺の助け舟になる気はないらしい。だがしかし、その大事な妻が方向転換して俺の領地に向かいそうだと思うからか、彼の目力はとても強かった。  絶対に俺に面倒を寄こすなよ?  無理だって、と俺も親友に視線で返す。  バン。 「バル? 私とあなたがお話しているのではなくて?」 「君が仲間外れにした君の旦那は、どうしてここにいるんだ?」 「私の旦那だからよ。ほら、あなたがなさった悪い事に気が付きまして?」  侍女をお払い箱にしたのはそんなに罪が重いのか。 「侍女は仕方が無いとしても、すぐに小間使いぐらい手配できたでしょう。小間使いを迅速に雇えたのは、あなたのお陰で助かったと感謝ばかりですが」  そうだ。  昨夜はエーデンに再会した途端に、開口一番にこの言葉で叱られたのだと思い出した。  侍女達との別行動はセレニアには伝えられない内緒もあるので必然的なものだったが、俺はこの状況こそ神の御心と喜んだ所もある。  宿に着くまでの数刻ぐらい、俺と彼女との間の垣根を取っ払えるかもしれない、などと考えてしまったのだ。  それに俺は、彼女が願うならば、いくらでも自分で世話をする。  イーオスなどエーデンの便利屋に成り下がっているじゃないか。  俺だってできる。  歩けない彼女の足にもなろう。  ダカ、ダカダカ、ダカ、ダカ、ダカダカダカ。  床を重たい槌で打ち鳴らしているかのようなおどろおどろしい音が響き、俺はその音の方へと顔を向ける。  俺はそこで頭が真っ白になった。  なんと、歩けない筈の妻が食堂の戸口に立っており、可愛らしく息を切らせているのである。  白い肌を仄かに染めている姿は可憐そのものであり、俺は美しい妻の元へ行こうと勝手に体が動いた。だが、彼女は俺に座れと手でジェスチャーをすると、そのままぎこちない歩みで俺達のテーブルに向かって来たでは無いか。 「歩けたのですか」 「義足は着けているもの」 「ですが! お呼び下されば、私めが参上いたしましたものを!」  エーデンが、わたくしめ、さんじょう、と、俺の言葉を繰り返しながら腹を抱えて笑い出したが、いいだろう。  俺は俺の姫様の一挙一動の方が大事なのである。  さあ、セレニアの為に椅子を引くのだ。  俺は立ち上がったが、裏切り者のイーオスの方が早かった。  彼が当たり前のようにして、すでに姫に椅子を引いていた。  彼女はイーオスにありがとうと可愛らしく言って座り、俺は俺の仕事と姫様とのふれあいを奪った親友を睨みつける。  彼はやっぱり俺への嫌がらせだったようで、得意そうな笑顔を俺に返した。 「お前は意外と性格が悪いよな」 「でもあなた。イーオス大尉は怪しげなお店でお花を摘んでこないわよ。えっと、今は少佐でいらしたのですよね。ご栄達に赤ちゃんって、とてもおめでたが重なりましたね」 「ありがとうございます。姫様。この幸せは全てあなたのお陰ですよ」 「まぁ」 「え、ちょっと待って。今、なんて?」  俺は純粋な筈の姫の口から飛び出した言葉に驚き、当たり前のようになんでも知っている母親に助けを求めた。  エーデンの両目をぎらつかせた表情は、彼女が俺を叱っていた理由がまさにそのことだと俺に言っている。そうかあと、俺はエーデンが怒りの訳をようやく理解したのである。  そうだ、そうだった。  ジャスミンの香りに釣られて訪れた店で、銀貨一枚で一つかみのジャスミンを手に入れたが、よくよく考えてみればその店は売春宿であった。  俺の頭はダヤン修道院の庭で目にした奇跡の情景、噴水と白い花々を背景にした美しきセレニアの姿だけしかなかったのだ。  それも情けない思い出だ。  自分の存在に彼女が気が付いてくれたら声をかけようと眺めていた癖に、いざ彼女が俺に気付いたら、俺は一目散に彼女から逃げたのだ。  下民出身の何も持たない男が、一国のお姫様に何を語れたというのだろう。  あなたのお陰で少佐になれましたと頭を下げる?  情けなさすぎる。 「すいません。お花があったのでとにかくそこに飛び込んで、銀貨三枚で手に入れました。でも、ごめんなさい、僕はそこがどんなお店かも知らなかったの」  進退窮まる俺を助けたのは、俺を暗殺に来たまま従僕に納まっているキリアムだった。  足音も無く後ろから現れた事にはぞっとするが、彼には銀貨三枚をあとで渡そう。  ほら、キリアムの助勢によって目に見えてエーデンの怒りが消え、イーオスもいつもの好漢に戻っているではないか。  しかし、俺の妻はなぜかしゅんとしぼんでしまった。 「まぁ、そうだったの。では、あの花は旦那様からのものでは無いのね」  え、落ち込んだのか? 姫は俺からの贈り物が欲しかったのか。  畜生、キリアム。勝手なことをしやがって。 「いいえ。どうして花を探していたのかって言えば、団長が贈る花が見つからないと嘆いていたからです。彼は僕から金貨一枚で花を取り上げたんですよ。ひどいでしょう」 「まぁ」  姫は嬉しそうに笑い、俺はキリアムに渡す金貨一枚を思って心の中で少し泣いた。  今の俺にはそれほど金はない。  伯爵位にしても、大佐の階級だって、それは俺をすっからかんにするほどの金をむしり取られての、それ、なのだ。  姫だった彼女を、野犬の妻に落ちただなんて、笑いものにさせてはいけない。  彼女のためならば何だって買ってやる。  今はすっからかんだが。
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