あなたじゃないと

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あなたじゃないと

 殺気を纏った男は確実なる恐怖をエバンズに与えながら、一歩一歩と確かな足取りで脅えるエバンズに近づいて行った。  こんなにも近くにいるのに、私には彼の顔が見えない。  私からは丁度彼の顔が影になるような向きで、彼はエバンズへと移動しているのである。  彼の表情が見えない事が残念であるが、彼は私の期待通りに、頭と口元からだらだらと血を流しているエバンズを私から追い払ってくれた。  今度こそ壁にぶつかって死ぬのではと思う程、ウジ虫みたいなエバンズを強く蹴り飛ばしてくれたのだ。 「あなたは本当に素晴らしいわ」  しかし彼は私に振り向くことなく、仕事が終わったという風に部屋から出て行こうと踵を返す。 「待ってバルドゥク!」  彼はそこでピタリと足を止めた。  けれど、私からは背を向けたままだ。  でも彼の耳が真っ赤なのは見える。  ええと、あらまあ!!  私は自分が太ももを丸出ししていた事を思い出した。  慌ててドレスをつかむ両手を開き、ぱさりと裾は床に降りて太ももを隠したが、きっとすでに遅しな事態だろう。  私も耳まで真っ赤になってしまった。 「あ、あの、ご、ごめんなさい。あなた以外の人達にはしたない姿を見せてしまって。あの、怒っていらっしゃる?」 「そんなことで怒りません。俺は、あなたの強さに尊敬さえもしています」 「それではどうして振り向いてくださら、あ、ドレスは戻したから。こちらを向いても大丈夫よ」  しかし彼は振り向かない。 「どうして振り返ってくれないの」 「式前に花婿が花嫁を見たら、その婚礼は不幸になると申します」  セシルやアーニス、いつも無表情のジーニーまでも、彼の言葉に噴き出した。  彼の語ったしきたりは、最近では殆ど気にもされない古いものだからだ。  けれど、私は彼の言葉がとても嬉しかった。  彼は私達を完璧に幸せにしたいのだ。  ここは彼を解放するべきなのだろう。  でも私は、今すぐ彼に振り向いてもらえないと死んでしまいそうなのだ。  私達は、互いの気持ちだって伝え合ってはいないでしょう、と。  式前にあなたの瞳を見つめ、愛している、と伝えたいのよ。 「ふ、不幸でも、あなたが私を見つめてくれるなら、私はずっと幸せだと思います。私は、あなたの顔を見て、式の前にあなたが好きだと伝えたいのです。だから、お願い」  彼の右肩は見るからにびくっと震えたが、私に振り向きなどしなかった。  それどころか大きなため息を吐き出し、低く暗い声を出したのである。 「俺は、農奴だった俺は、親の顔など知らない。自分の名前だって与えられていない。物心ついた時に俺を慈しんでくれたのは、領主が飼う犬、だけでした。俺はその犬の名前を名乗っているだけの名も無き獣です」  私はバルドゥクの突然の告白に、頭が真っ白になった。  彼は自分の出自が下卑たものだと私に突き付けることで、私から結婚の白紙を言わせたいのだろうかと、パニックになったといってもよい。  そして、終に確信した。  パニックになったのは、私が彼と結婚したいからだ。  私は彼に恋をしている。  彼が私から逃げようとしているのならば、私は彼を射止めなければならない。  釣り竿でのんびりなんてしていられない。  銛でも槍でもどんと使え、だ!  そうよ、エーデンが恋は狩りだと言っているじゃないの。  バルドゥクを狩るのよ、セレニア!! 「私を追い払う事なんてできませんよ」 「追い払う、なんて」  彼が振り向きかけた。  びくっと動いただけかもしれないが。 「バルドゥクとは治癒神ラグ―の御使いの名前ではないですか。そんな名を持つ子は素晴らしい生き物だと決まっています。その子が生きているのならば、最高の寝床を用意してあげましょう。そ、それに、わたしはあの日の婚礼で、すでにあなたの妻になったのだと思ってきました。だ、だから、今更私を振り払おうなんてできません。世話をしてくれなくても、私は自分の足で歩いてあなたを追いかけます。だから、妻としての我儘でありお願いです。私は今すぐあなたに振り向いて欲しいの!愛しているとあなたの顔を見て伝えたいの!!」  彼は頭を垂れたまま一切動かず、私は自分が情けなく涙迄溢れそうになったその時、セシル達の後ろからにょきっと赤い髪の少年の頭が突き出た。 「ほら、いい加減にして。仕事はまだ残っていますよ」 「あ、しまった」 「うわあ」  セシルとアーニスは慌て声を上げて廊下へと引っ込み、いつも無言のジーニーも、やはり大きなため息だけ吐いてから彼らの後を追っていった。  後には、バルドゥクと私、そしてキリアムだけ残った。  私の斜め後ろでへたり込んでいる妹と、壁際でぼろ雑巾になっているエバンズなど、今の私にはただの壁の模様に部屋の家具だ。  そんな時間が止まって無音となった世界で、時間を動かしたのはキリアムだった。  彼は私に愛嬌のあるウィンクをして、もう少しだけと言ったのである。 「え?」 「姫様、ほんの少しだけ待ってくれますか。この人、スゴク泣いている」 「えぇ?」 「ば、ばか。お前も仕事が残っているんだろ。あの調子者どもを監督するって大事な仕事が。早く行け」 「かしこまりました」  キリアムはぴょこんと貴族的な礼を私達にすると、すっと、猫のように戸口から去って行った。  私は再びバルドゥクの背中を見つめ、彼が振り向いてくれるその時を待つことにした。  私達にはこれからも長い幸せの時間が沢山あるのだ。  いくらだって待てるでは無いか。  そうでしょう、セレニア。 「あなたは俺の夢です。あなたに愛されたいと頑張ってきました。だが、ああ、情けない顔しかあなたに見せられない」 「わ、わたしは夢でなくてよ!!」  私はバルドゥクへと歩いていく。  一歩、また一歩と。  今の私は歩けはするが、踏み出す一歩は自然に足が出るものでは無い。  考えて意識して覚悟して、そうして一歩がようやく踏み出せるのだ。 「ふふ。これだけで息があがってしまったわ。でも、あなたというゴールでご褒美があるならば、私はどこまでも頑張れる。あなたが情けない顔を見せてくれるから、私は、ええ、私はあなたの胸で泣けるのだわ。ただの娘のセレニアになってあなたに甘えられるのよ。それはお嫌かもしれませんけど」 「嫌なはずありません!!」  私の視界は真っ暗になった。  私はバルドゥクの胸に顔を押しつけていて、バルドゥクは私がそうなるように私をきつく抱きしめている、のだ。 「愛しています。俺でいいですか?」 「あなたがいいの。愛しているわ」  バルドゥクの顔は涙にぬれていたが、私が今まで見たことない、とっても素敵だと思う顔にしか見えなかった。最高の顔だと思った。こんなに愛されて幸せだわって、感動ばかりだった。
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