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オイル・サーディン
大学から近いこの小さな町では、新学期には、一気に人口が増え、その後徐々に減っていくという面白い現象が起こる。
冬はこっそり帰って来る筈だったが、母の仕業でシモーネが迎えに来ていた。
「トーコ!会いたかった♪」
…夏は過ぎたのに相変わらず暑苦しい。
シモーネは退院直後から仕事に戻り、たぐいまれなるその生命力で?皆を驚かせた。
「残った社員で頑張らないと…。」
いつも必要以上に明るいシモーネだったが、その話になると暗くなるので、冬も敢えてその話には触れないようにしていた。
警察署に遺留品を取りに行ったり、必要な教科書を買いに行ったり、裏庭の芝刈りをしたりなど、冬は忙しく過ごした。
今回は病院での実習などがあるので楽しみだった。そして時々冬のマンションでパーティをした。
「なんで誘ってないのに居るのよ?」
シモーネはいつの間にかパーティーに混じって、女の子を口説いていた。
友人達の殆どがナーシング専攻で、中には大学院生もいるので、情報交換が出来た。
「トーコはダーリンが待ってるんでしょう?すぐ帰っちゃうの?こっちに残って働けばいいのに。」
一番仲の良いキャシーが言った。
「うーん。随分待たせちゃったからなぁ。これ以上待って貰うわけにはいかないの。」
独りだけ麦茶を飲みながら冬は言った。
「ねぇ…。うちの病院看護師探してるんだけど、週1ぐらいでバイトしない?」
身長が2mある男性看護師のロンが言った。
「学生ビザだから働けないの。ボランティアで良ければ働いて見たいかも♪」
冬は笑った。
「ちょっと…馬鹿じゃないの?折角看護師免許あるのに、給料貰わずに働きたいなんて…トーコは変わってるわ。」
キャシーが呆れた。
「折角こっちにいるんだから、経験出来ることは全部してみたいの♪」
キャシーが作ったほうれん草のキャセロールに誰も手をつけていないのを見て、冬は自分の皿に盛った。
「だから日本人はワーカーホリックだって言われるんだね。普段のトーコを見てて分かってたけど。」
ロンが笑った。
「ねぇ。ボランティアでも雑用係でも良いから何か病院の様子が判るようなことが出来るなら紹介してね。」
挑戦しないで諦めたら後悔が残る…母に言われた事を改めて思い出した。
♬*.:*¸¸
小鳥遊は遅い夏休みを2週間取れた…というより取らされた。
他の医者を優先して休ませていると有給消化など不可能で、監査で問題になると事務長から言われた。
今泉のことも心配だったが、退院して自宅療養中も、暫くは春と、今泉の母親が交代で様子を見に来てくれるので安心だった。
冬はエアポートまで迎えに行きたかったが、学校があるので迎えに行けなかった。最初からタクシーを使うつもりでしたから気にしないで下さいと小鳥遊は言った。
学校から大急ぎで帰って来た冬は、
早速夕食の支度に取り掛かった。
この間の日本滞在は、今泉のことで掛りっきりになってしまったので、その埋め合わせもしたかった。
夕食がほぼ完成の時にドアのチャイムが鳴った。
「やぁ♪晩御飯出来た?」
シモーネだった。
「今週は駄目だって言ったでしょう?日本から彼氏がくるからって。」
冬は呆れた。小鳥遊が来ることを随分前から伝えておいた。
…絶対…わざとだ。
「良いじゃない。2人分も3人分も変わらないでしょう?」
…そういうことじゃ無いんだよ。
冬はワザと大きくため息をついた。
「駄目駄目…あなたの入るスキなし!」
シモーネと押し問答をしているうちにアパートの前にタクシーが一台止まり、小鳥遊が降りて来るのが見えた。
「ガクさん!」
玄関から裸足で飛び出して、小鳥遊に抱きついた。
「トーコさん おひ…。」
冬は熱い口づけを交わした。
「さぁ 疲れたでしょう?ご飯の準備出来てるから。」
そう言って冬は荷物を運ぶのを手伝った。
「…と言うことだから、今週はガクと過ごすの。だから邪魔しないでね♪」
シモーネが小鳥遊を見つめていた。
「あれ…ガクとは別れたんじゃ無かったの?」
こんにちは…と言った小鳥遊をシモーネは無視して言った。
「よりが戻ったの…じゃあね。」
冬はドアを開けて小鳥遊を招き入れるとさっさとドアをしめ、鍵をしっかりと掛けた。
「随分と大きなアパートですね。」
冬は寝室に荷物を運ぶのを手伝った。
「お腹が空きました。」
小鳥遊は冬がはしゃいでいるのを見て微笑んだ。
「じゃあご飯にしましょう♪」
久しぶりに二人きりでゆっくりと食事をした。冬と目が合うと、嬉しそうにニコニコしていた。
今泉の様子や、病棟の様子を小鳥遊は冬に話して聞かせた。学校も始まり冬の生活は充実しているようだった。
「隣のアパートにシモーネが住んでいるんです。家に絶対に入れないで下さい。勝手にご飯食べたり寛いだりするから。」
…勝手に…って。
「相変わらずなんですね。」
小鳥遊は、その様子が容易に想像出来てしまい苦笑した。
冬は食べ終わった食器をキッチンへと運んだ。
僕も手伝いますと言って小鳥遊は一緒にキッチンに並んだ。
「なんか…ガクさんとキッチンに立つなんてちょっと変な感じです。」
冬は笑いながら、キスをねだった。
…確かに…大抵は今泉が手伝っていた。
「僕もやれば出来るんですが、気が付いたら静さんとトーコさんがやってしまっているので。」
病院の外で、生き生きとして、よく動き、食べて、笑う冬の姿を眺めているだけで幸せだった。
「別にお手伝いは要らないです。手に怪我をしたら大変ですから。」
冬は微笑んだ。
「でも…ここに居る間は出来ますからお手伝いします。」
そう言って冬の洗った食器を水で綺麗に流した。使っている割にはキッチンがとても綺麗だった。
片付けが終わり、小鳥遊はシャワーを浴びてソファで寛いでいた。冬はリビングのテーブルの上に教科書や資料を出して勉強していた。
「何か手伝いましょうか?」
「いいえ…大丈夫です。データー集積したのを纏めてるだけですから。」
結局冬は深夜過ぎまで勉強をしていた。小鳥遊はそんな冬を眺めていた。
いつもマンションでは今泉が居れば、冬と楽しそうに他愛も無いことを話し、それを小鳥遊が静かに聞いている…のがいつもの情景になっていた
「静さんが居ないと…静かですね。」
小鳥遊が笑った。
「そうですね…静さんって時々子供みたいに思えるんですよね。無邪気で、突拍子も無いことをするから。ほら…勝手にお付き合い宣言しちゃったりとか。」
冬が思い出して笑った。
「それを言うなら、あなただって突拍子も無いことをするじゃないですか。」
小鳥遊は、1番突拍子も無い冬に自覚が全くない事がおかしくて、くすくすと笑った。
「なーに?なんで笑っているんですか?」
「何でも無いです。あなたは僕たちを心配させる名人…だと思っただけです。」
確かに爆破事件の時はそうでしたけど、それ以外は無いですよと冬はラップトップの画面を見ながら笑った。
「トーコさんは日本に帰って来たらどうするんですか?」
…予定では半年後に帰る筈だがトーコの事だ。また変わるかも知れない。
トーコは少し考えているようだった。
「トーコさん 心配なことがあるなら僕たちに相談して下さい。」
「そのことなんですけれど…。」
…ほら。きた。
冬は言い難そうだった。
…やっぱり。
小鳥遊は苦笑した。
「何で笑うんですか?まだ何も言ってないのに…。」
冬はチラリと小鳥遊を見た。
「またこちらに暫く居て働きたいとか、もう少し勉強したいとか言うのかなと思って。」
「それもあるんですが、実は友人が日本の看護大学で助教授をしてるんですが、院を卒業したら来ないかって言われているんです。あとは大学付属の看護学校からも教員として来て欲しいと…。」
「それは良い話じゃないですか。」
あーやっと終わったと言って冬は教科書やパソコンを手早く片付けて、ソファで寛ぐ小鳥遊の隣に座り甘えてきた。
「でも…病棟で働くのが好き。ガクさんともまた一緒に働きたい。結婚したら、一緒の病棟じゃ働けないだろうけど。それに看護教育に携わるんだったら、教育系のコースも取らないといけないんです。」
大きな小鳥遊の胸に抱きつくと、その香りを堪能している。
小鳥遊は冬の口から“結婚”の言葉が出て驚いた。
「あれ?私何か変なこと言いました?」
冬の背中を大きな手でゆっくりと撫でていた。
「あなたの口から結婚の言葉がでるとは思いませんでした。」
…そうだ…そのことで何度も口論をした。
小鳥遊は笑った。
2階に上がって、ゆっくりしましょうと冬は、小鳥遊の手を引っ張り、ソファから起こした。
ふたりで手を繋いで、2階へとあがった。
「もしかして…もう結婚したくなくなっちゃった?」
階段の途中でぴたりと止まり、こちらを振り返った冬の愛くるしい顔が、少し心配そうに小鳥遊を見つめた。
「したくないわけが無いじゃないですか。」
小鳥遊は、眉を顰めた。
ふたりで小鳥遊が使っている寝室へと入った。
…そうだ…何度も断られて、ずっと待っているのに。
そっか良かった…と冬は、笑いながらベットに横になって、自分の隣の場所をポンポンと手で叩いた。
ここに来なさいの合図だ。小鳥遊はその可愛らしい仕草に、微笑み横になった。
「もしかしたら ガクさんが心変わりをしているかもと思ったの。」
「そんなことはありません。」
冬をしっかりと抱き寄せた。
「静さんとあなたが良いというなら、今すぐにでも結婚したいです。結婚して下さい。」
…冬が帰って来た時のことをそろそろ考えておかなければならない。
嬉しさもあるが、やらなければならない事が、沢山あるなと小鳥遊は、思った。
「良かった♪」
冬は無邪気に笑った。
「僕はあなたにプロポーズをまたしたのに“良かった”って…それだけですか?」
小鳥遊はため息をついた。
「私が、死なずに日本へ無事に帰れたら、今度こそ…」
小鳥遊は言葉を遮った。
「それ…アメリカンジョークのつもりですか?ちっとも面白く無いですし、あんなことが何度もあったら困ります。」
呆れている小鳥遊に、冬は甘えて首に腕を回し、耳元で可愛く囁いた。
「その時には、ちゃんと膝をついてプロポーズして下さいねっ♩小鳥遊医局長♫」
冬は小鳥遊の硬い髪に小さな手を入れてその感触を楽しむように梳いていた。
「嫌です…もうしません。僕のプロポーズを断った人は後にも先にもあなたひとりですよ?それも何回も…。」
小鳥遊は半分本気で、半分冗談で抱きしめられた冬の顔を埋めた。
「えぇ~っ。」
「嫌です…もうしません。」
小鳥遊は、まるでイジけた子供の様で可愛かった。
「後にも先にもって、別れた奥さんだけでしょう?また大げさなんだから。」
冬はケラケラと笑った。
小鳥遊は呆れていたが、将来が少し見通せる様になり、冬自身にも余裕が出来たのかも知れない。
「そうだ…。お友達に教えて貰ったアダルトグッズのお店があるの。そこに明日の夜一緒に行ってあげるから、許して?面白いものが一杯あるんですって。だからご機嫌直して下さい。」
「わかりました。」
小鳥遊が即答したので冬は笑った。
「あれ…でも…ちょっと待って下さい。先ほどあなたは、こちらで暫く働きたいって言ってませんでした?」
「言いましたっけ?」
小鳥遊はふと冬の胸元から顔を上げたが、
手では素早く冬のTシャツの中へと滑り込み、
胸を揉み始めていた。
「確かに言いましたよ…看護大学教授の件で、それもありますがって否定しなかったじゃないですか。あれは一体どういう意味ですか?」
冬の背中に手を伸ばし、片手で器用に、ブラのホックを一瞬で外した。
「そうでしたっけ?」
…やばい。ついでのように言えばばれないと思ったのに。
「ええ言いましたよ。」
冬は笑って小鳥遊と向き合った。
「気のせいじゃないですか?」
そして小鳥遊の首に腕を回した。
「いいえ。 確かにそうはっきり…と…。」
冬の柔らかくて温かい唇にその後の言葉を塞がれた。
「そんなことより…小鳥遊医局長は、エッチなトーコを今夜は見たくないの?」
冬は紅潮した顔で、小鳥遊の耳元で囁いた。
「今日はお医者さんごっこプレイですか?」
小鳥遊が耳元で囁いたので、冬は噴き出した。
「小鳥遊先生は、ドクターなのに“お医者さんごっこ”がしたいんですか?」
冬のTシャツと、ブラをゆっくりと脱がせて。
「うん♪僕オペ着持ってきましたよ。パジャマの代わりになりますし…。」
小鳥遊は嬉しそうに言った。
「病院で散々、AVも真っ青な、本物の“お医者さんごっこ”したじゃないですか。」
冬は小鳥遊の顔を見上げた。
「だってずっと前に僕のカッコ良いオペ着姿でしたいって、あなた言ってたじゃないですか?」
…記憶力が良いことと医者が高確率でエロなのは、やっぱり辺縁系優位だからなのか。プライベートは、セックスの事ばかりなり…か。
「それより…今はガクさんの頭部CTとかMRIが…マジで見たい。」
冬は、呆れたように笑いながら、小鳥遊がシャツを脱ぐのを手伝った。
「なるほど…頭部画像で欲情する人は初めてですが…なかなかマニアックで良いですね。」
…この変態エロの視床下部は普通の人より絶対デカい筈。
小鳥遊に背中を向けると、ぴたりとくっついて、小鳥遊の手を自分の胸に誘導した。
「…もし結婚するとしたら、ご両親に挨拶しなきゃいけませんね。」
小鳥遊はゆっくりと胸全体を揉み、先端に優しく手のひらで触れることを繰り返し乍ら、随分たってから、それに答えた。
「僕に両親はいません。」
「どういうことですか?」
「父が亡くなり、病気がちだった母も後を追うように亡くなってしまい、僕は施設で育ちましたから。」
冬が初めて聞いたことだった。驚いたが何も言わず、ただ静かに聞いていた。
「勉強だけは出来たので、奨学金で大学へ行きました。」
冬の乳房に触れていた小鳥遊の手がいつの間にか止まっていた。ゆっくりと小鳥遊の方に向き直った。
「ガクさん話してくれてありがとう。…もう独りじゃないわ。」
冬は微笑んで優しいキスを小鳥遊にした。
…ありがとう。
微笑みながらお互いの下着を脱がし乍ら、身体を絡めた。
「何があっても、私はガクさんの元に戻って来るから。」
冬は小鳥遊の胸を確かめるように触れた。
「それが…僕がおじいちゃんになる前である事を祈ります。」
冬の頬を撫でて笑い、優しいキスをした。
♬*.:*¸¸
小鳥遊が朝目覚めると、冬は学校へ行った後だった。久しぶりに感じる清々しさだ。
夜は冬を何度も、堪能して自分が若返った気がした。
朝食を食べて、アパートの中を見て回った。
どの部屋もきちんと掃除が行き届いていて女性らしい…というよりも使いやすそうな部屋に整えられていた。
…トーコさんらしい。
冬が普段使っている寝室をそっと覗いた。ベットの丁度向かい側には、デスクがあった。
そして壁には、大きなコルクボードが貼られていた。
飛行機の半券、今泉と小鳥遊、それぞれと二人で撮った写真、病棟のみんなで撮った写真、修理して貰った今泉のネックレスがぶらさがっていた。
飛行機の半券…よく見ると、それは小鳥遊と冬が初めて一緒にアメリカに来た時のものだった。
こんなものまで大切にとってあったのかと小鳥遊は笑みが零れた。
勉強机の上には資料だと思われる書類が綺麗に重ねて置いてあった。
ふと本棚をみるとIVF、Clinical Embryologistに関連した雑誌や教科書があった。
…体外受精?胚培養士?
論文に使う英語で書かれた資料をペラペラと捲ってみると、産婦人科には全く関係の無い分野の看護研究についてだった。
整えられたベッドの上に横になると、冬の甘く優しい香りに包まれた。枕からはシャンプーの残り香がした。まるで冬が傍に居るようだった。
冬と愛し合ったばかりだというのに、下半身が熱くなるのを感じだ。小鳥遊は冬の香りに包まれ、昨夜のことを反芻し自慰をして果てた。再び少し休むつもりで、冬のベッドに横になった。
いつの間にか寝てしまっていたらしく、気が付くと既に冬は帰って来ており、机で勉強をしていた。
「トーコさん お帰りなさい。」
大きな欠伸をすると、ゆっくり起き上がった。
「ガクさん…疲れていそうから、家でお昼食べましょうか?」
冬は教科書をパタンと閉じた。
「いいえ…折角だからお天気だし外で食べましょう。」
カーテンの隙間から、まだ夏の強さを含んでいる光が漏れていた。
冬は嬉しそうに頷いた。
小鳥遊はコルクボードにぶら下がっていたネックレスを取り、冬の後ろに回りつけた。
「僕に遠慮は要りません。どうぞつけてください。あなたの御守りでしょう?」
冬は黙ってそれに従った。アパートから歩いていける Pa●era Breadで昼食をとることにした。
冬は道すがら小鳥遊とずっと手を繋いで歩いていた。嬉しそうにしている冬を見て小鳥遊は愛おしさが込み上げて来た。
「トーコさん 愛してます。」
ガクさん、突然どうしたんですか?と笑って言った。
「僕はそう思った時にはあなたに伝えることにしたんです。」
…そうだ…冬を永遠に失ってしまったと思ったあの時に、もっと愛していると伝えておけば良かったと後悔したからだ。
冬は繋いでいる手を大きく振って歩いた。あなたはやっぱり子供ですね。まぁそんなところも可愛らしいんですけど…と小鳥遊は笑った。
「私も愛してる♪とっても愛してる♪」
冬は歌うように言いながら歩いた。
遅い昼だったが、店には客がそこそこ入っていた。
冬は相変わらずTシャツにジーンズとラフな格好だった。
「あなたは大学生に紛れても何ら遜色無いですね。」
小鳥遊は良く笑う冬を眺めていた。
「そういうガクさんだって、白衣やスーツ姿も素敵ですけど、今もとっても素敵です♪」
小鳥遊は冬に褒められるととても嬉しかった。アースカラーのTシャツにカーキ色のアンクルパンツは、背の高い小鳥遊に良く似合っていた。シンプルだが、センスを感じる着こなしだった。
冬達のテーブルのすぐ横をベビーカーを押した女性が通り過ぎた。
赤ちゃんがマグカップを落とし、小鳥遊の足元に転がった。小鳥遊はそっとそれを拾って母親に渡した。
「あら済みません。」
母親が立ち止まると、赤ちゃんが、おもむろに冬のバッグについたキーホルダーを掴んだ。
「8ヶ月くらいですか?」
笑いかけながら、冬と同じくらいの年齢と思われる母親に聞いた。
「ええ…。何でも掴みたがっちゃって。」
こらこら離しなさいと母親はバックからおもちゃを取り出して、赤ちゃんに握らせた。
「可愛いですね。バイバイ。」
微笑んだ冬の優しい顔を小鳥遊は黙って見ていた。
「あ…ガクさん この後 この先の雑貨店に寄っても良いですか?食料品を買わなくっちゃ。」
「ええ…どうぞ。僕は構いませんよ。」
ふたりは道すがらまた仲良く手を繋いで歩いた。
「静さんとはよくお買い物に行きますけど、ガクさんとは初めてかも?」
「え?静さんとは良く行くんですか?僕だけのけ者ですね。」
小鳥遊は寂しそうに言った。
「だってガクさんは忙しいですし、何よりも一緒にお出かけすら出来なかったじゃないですか。」
スーパーの買い物に今泉はいつも喜んでついてきた。冬が商品を探す間,今泉がカートを押しながらついて行く…まるで新婚夫婦のようで、楽しかった。
「でも…僕も誘って欲しかった…です。」
仕事から遅くに帰って来る小鳥遊と、一緒に買い物へ行くのは無理だった。
「あ!でもお花見の時に一度だけ一緒にコンビニに行きましたね!忘れてた。」
「それって…もうかなり前じゃないですか…。」
冬はいじける小鳥遊をみてまた笑った。
「ここでは、普通のこといっぱいしましょ♩」
冬は、小鳥遊にキスをねだった。
人通りの多い昼間の路上キス。
周囲の誰もが気にしない。そんな雰囲気がとても新鮮で、瑞々しくて小鳥遊は楽しかった。
雑貨屋はこの町で一番大きな個人経営のお店だった。
コンビニのようだが、アルコール飲料なども販売していた。
一度冬がパーティーのビールやワインを買おうとして学生証を見せたが、店主は童顔な冬は高校生ぐらいに見えたらしく、警察を呼ばれた事があった。
年齢詐称の疑いは直ぐに晴れたが、それから店主と挨拶を交わすようになった。
「あらトーコ いらっしゃい。」
「こんにちは トム。」
「今日はシモーネと一緒じゃ無いんだ。」
トムの奥さんが段ボールを崩し平らにしならがら声を掛けて来たが、冬の後ろからついてきた小鳥遊に気が付きHiと挨拶をした。
「あぁ。私のボーイフレンドです。遅い夏休みで日本から来てくれたの。」
「おや…私は、てっきりシモーネがボーイフレンドだと思ってたよ~。だって一緒に住んでるんでしょう?」
冬達の他にも客が何人もおり、先ほどの赤ちゃん連れの女性もいた。
…あいつめ。
「シモーネはただの友人よ。一緒にも住んでないわ。」
そう言って小鳥遊と一緒に店の奥のパンの陳列棚へと歩いた。
「あ…懐かしい 学生時代良く食べてたポテトブレッド。」
小鳥遊が言った。
「ガクさん食べたいもの入れて。」
学校から帰りが遅い時もあるので、小鳥遊が食べられるようにとシリアルやパン、甘くないピーナッツバターなどをカートに入れた。
「ねぇトーコさん…Twink●e買って♪」
小さなスポンジケーキの中に歯が抜けるように甘いバター・クリームが入っているお菓子だ。
「いちいち聞かないでカートの中に入れれば良いのに。」
冬が笑った。
「だってジャンクフード駄目ってトーコさんに怒られそうだったから。」
…ああ この姿を患者に見せたい。
冬が笑った時だった。
店の入り口の方から、人の争う声と
――パンッ
風船がはじけたような乾いた音がした。
…銃声だ!!!
店内に居た客たちが悲鳴を上げた。
「ガクさん!!伏せて!」
他の客も陳列棚の蔭に隠れてた。
「トム!トム…しっかりして!」
店主の奥さんの声が聞こえた。
「おい…ばばあ 早く金を出せ。」
―――チーン。
キャッシャーの開く音が聞こえた。
「この袋の中に入れろ。」
強盗の声だけが聞こえた。
10歳ぐらいの男の子がドリンクのコーナーでしゃがみ真っ青な顔をして震えているのが見えた。
「…坊や…こっち。」
冬は小さな声で男の子を呼んだ。女性の声と赤ちゃんの泣き声が聞こえた。男の子は 首を横に振った。
「…ちょっと待って…そっちに行くから。」
そう言って棚から出ようとした時、小鳥遊に腕を引っ張られた。
「…トーコさん 僕が行きます。」
「…ガクさんは大きくて目立つから!わたしが行く。」
冬達は店の一番奥の隅に隠れていた。そこには防犯用の鏡も無く、以前トムの妻が、トムに文句を言っていた。
丁度レジから死角のその場所には奥まったところに裏手に続く出口があった。巡回中のふたりの警官が発砲音を聞きつけてやって来た。
「やべぇ…。」
強盗は近くにいた2人組の女性を脅し警官と自分たちの間に立たせた。
冬は静かに震えている子供を出口の方へ案内した。
「…あ…ちょっと待って。」
冬はバックの中のマネークリップから1ドル札をだし、〝2人組の男、人質は自分を入れて少なくとも8名、乳幼児ひとり”とペンで書いた。
「…これ外の警察官に渡してね。」
冬が囁いた。
「弟がいるの。」
男の子は震える声で言った。
「…弟はどこに居るの?」
「隣の陳列棚の通路に居たと思う。」
「…わかったわ…見て来るからあなたは先に出て。」
男の子は小鳥遊に誘導されて出口へと向かった。冬はゆっくりと2列目の陳列棚へと移動した。
そこには老婆がひとり隠れていた。冬は目が合うと唇の上に人差指を置いてしーっというジェスチャーをした。
「おい お前とお前、窓のブランドを下げて見えない様にしろ。ばばあ 店の電気を消せ。余計な事をするとぶっ殺すぞ。」
--- シャーシャーッ。
ブラインドが下される音が聞こえた。
「何もしないから撃たないで。」
「銃口を向けないでくれ。」
そして店内のライトが消された。警察が外にどんどんと集まってきているのが分かった。冬はゆっくりと3列目の陳列棚に近づき覗くと、男の子が震えていた。
「大丈夫だから。」
小さな声でいうとゆっくりゆっくりと小鳥遊が隠れている一番端の列まで連れていった。
「…お兄ちゃんは大丈夫だから。あそこの出口を出たらお兄ちゃんがいると思うわ。」
店の裏口を指差して言った。
「おいお前らそこに並べ。手を挙げるんだ。バッグを寄こせ 携帯を出せ。」
一人ずつボディチェックをしているようだった。
「いたい!何もしないから乱暴しないで。」
「ポケットの中も見せるんだ。」
小鳥遊は音が出ない様に携帯から911を押した。外には次から次にパトカーが来て無線の音が大きく、店の中まで聞こえていた。
(911 消防ですか?救急ですか?)
「…黙って聞いて下さい。●●通りの雑貨屋で立てこもりです。犯人は判る限りで2人。銃創患者1人。はっきりと判りませんが、人質は僕を含めて8人です。」
(…貴方の名前は?あなたは安全な所に居ますか?)
「僕はDr.Takanashi。店舗の中に居ますので安全ではありません。店内の様子がわかる様に、電話を繋っぱなしにします。携帯電話のバッテリーは2時間程だと思います。」
小鳥遊は小さな声で話をしていた。
冬はその様子を見ながら、男の子を裏口へと静かに連れて行った。
「ここを出れば外に繋がっているから。独りで大丈夫ね?」
裏口の側まで男の子を連れ出した。
「…うん。」
男の子が逃げ出しのを確認してほっとしていると、再び発砲音が続けて聞こえた。そして男性のうめき声。
「痛ぇなぁ。この野郎ふざけやがって。どこに隠れていやがった。」
鈍い音が何度かした後に再び男性のうめき声が聞こえた。強盗が男性を蹴っているらしい。
「他にも隠れているヤツが居るかもしれない。ちょっと調べてくる。」
冬は息を飲んだ出口はすぐそこだ。逃げようと思えば逃げられる。
小鳥遊はまだ話している。
「…トーコさん怪我人が居るので僕がここに残ります。あなたは逃げて下さい。」
「…嫌です。ガクさんと一緒に居ます。」
「…我儘言わないで。」
小鳥遊は、無音のスピーカーにして商品棚の間に携帯を隠した。靴音が近づいて来る。次の瞬間、再び銃声。
「地獄へ落ちろ。」
老婆の声が聞こえた。
――パンッ
再び銃声。
「ううぅ…ふざけんな!糞ばばぁ。」
――パンッ パンッ
立て続けに銃声が2回した後、ドサッという鈍い音が聞こえた。
「おいマイク大丈夫か?」
入り口付近に居る男が叫んだ。
「しーっ。お前馬鹿か?名前で呼ぶな。さっきは横っ腹、今は一発足に食らった。」
くそっくっそっと言いながらマイクは再びこちらへと歩いてきていた。女性は子供をあやしているが、赤ちゃんが泣き続けている。
「おいその赤ん坊を黙らせろよ。」
もうひとりの男がはイライラした声で怒鳴った。こちらにゆっくりと歩いて来る足音が聞こえた。
…ガクさんはこのまま隠れてて
冬は小さな自分のバックをゴソゴソと漁って、スマホの電源を切った。
マネークリップから外した何枚かのお金を自分のポケットに突っ込み、バッグは商品棚に隠した。
「…トーコさんあなたは…一体。」
冬は驚いている小鳥遊に,押し付ける様に唇を重ねた。
「愛してる。」
そして、今泉がくれたネックレスを握りしめた。
「待って!今出て行くわ。だから撃たないで!!」
冬は大きな声で叫んだ。
その後すぐに小鳥遊も叫んだ。
「僕も…そちらに行きますから…撃たないで下さい。」
「|What the fu●k are you doing?《何やってんのよ?》」
冬は小さな声で小鳥遊に怒った。
「…あなたまたF爆弾を落としましたね?これで2度目ですよ?」
こんな状況でも落ち着いている小鳥遊に冬はイライラした。
「手を挙げてひとりずつ出て来い。ゆっくりだ。まずは女だ。」
「判ったわ。」
冬が両手をあげながらゆっくりと立ち上がった。
「ゆっくりとこっちへ来るんだ。変な真似をするんじゃねーぞ。」
冬はマイクにゆっくりと近づいた。マイクはポケットやズボンを探り、先ほど冬が入れたばかりの20ドル札を引き出して、自分のポケットの中に入れると、冬をレジの方へ突き飛ばした。マイクは白人で年齢は20前後と思われた。
「何も持って無いわよ。」
レジには、大学生と思われるカップルと女性2人連れ、赤ちゃんを連れている女性と額から血を流した男性が足を撃たれて床に座っていた。
レジの中では、トムが横たわっており奥さんが寄り添うように付き添っていた。
「次っ!」
小鳥遊も両手を挙げてゆっくりと立ち上がり冬と同じように近づいた。
赤ちゃんを一生懸命にあやす女性が冬の顔を見てあっと言う顔をした。
"…Hi."
冬は静かに言った。
「これで全部か?」
マイクが言ったが、誰も何も答えなかった。
「僕は医者です。怪我人の様子を見させて貰っても良いですか?」
小鳥遊が丁寧にそして静かに言った。
「うるせぇ!黙ってろ。」
やっと泣き止んだと思った赤ちゃんはその声に驚いてまた泣き始めた。
「ジェイ…うるさいのはお前だ。」
「…女の私なら大丈夫でしょう?看護師なの。応急処置なら出来るわ。」
冬はゆっくりと通路に倒れている老婆に近寄った。
「ちくしょう!ちくしょう!なんてことだ…。」
ジェイは少し神経質になっており、頭を抱えながらその場をウロウロしていた。
「おい!女動くなって言っただろう!!」
冬は老婆の脈を取っていた。
「まだ…生きてるわ!救急車を呼ば…。」
ジェイはつかつかと近づき銃の柄で冬を殴りつけた。鈍い音がして、額を抑えた冬の指の間から血が流れた。
「トーコさん!」
小鳥遊はそれを見て冬に駆け寄った。
「おい!お前も死にてぇのか!?」
ヒステリックにジェイが叫び、銃口を小鳥遊に向けた。
「ジェイ…ジェイ?私達は武器は何も持っていないわ。あなたが調べたんだから知っているでしょう?ただDr.Takanashiと私はこの女性を助けたいだけ。」
冬は診察を続ける小鳥遊と銃口の間に入り大きく手を広げた。その銃口は躊躇いなく冬の頭に向けられた。
「Dr.Takanashiは診察をしているだけ。」
「…大丈夫ですか?足は動きますか?傷を見ますね?」
女性は小鳥遊に弱々しく答えている。
「俺は勝手に動くなって言ってるんだ!」
ジェイは引き金に手を掛けた。冬は怒りと恐怖で震えていたが今までとは違う低く小さな声で、周りに聞こえない様にジェイに言った。
「ジェイ…いい加減にしなさいよ?怪我人が死んだりしたら、25年ぶち込まれる位じゃ済まないわよ?無抵抗な一般人を殺したりしたら、あなた達はここから濃い色の遺体収容袋で出ることになるわ。いい?もう一度言うわ、Dr.Takanashiは、私達は傷ついた人を助けたいだけ。」
ジェイはそれを聞いてたじろいだ様子だった。
冬は執拗に小鳥遊の名前を呼んでいた。
人質も個の人間であることを強調する方法だ。
「…トーコさんこの方をカウンターの傍へ運びましょう。手を貸して下さい。」
冬は小鳥遊の方に向き直り、ゆっくりと女性を運んだ。
「ガーゼ!それにテープかビニールテープでも良いわ。ジェイ!持ってきて早く!!」
立ち尽くしたままのジェイに冬は叫んだ。
「ジェイ…もう良いだろう。」
マイクは足を引きずりながらジェイに近づき、銃を掴んだ。ふたりは老婆をカウンターの横に寝かせた。
「ちょっと失礼します。」
小鳥遊は傷の様子を確認した。冬はその場から動かないジェイにしびれを切らした。
「何か使えそうなものを探して来るわ。」
冬はマイクとジェイを無視して店内を歩き回り、必要なものを纏めて買い物かごに入れて揃えた。
「トムの奥さん…ケイトだったわよね。濃度の高いアルコールはある?」
「糖尿病用患者のアルコール脱脂綿ならあそこの棚にあるわ。ウォッカならあっち。」
冬は買い物かごを持ち使えそうなものを次々とカゴにいれた、アルコール脱脂綿を袋から出すときつく絞り、血液で汚れた周囲をそっと拭いた。
「ガーゼの八つ折りを厚めに当ててテープで止めよう。」
小鳥遊は冬に言った。小さな弾丸の侵入口は臍より外側に2箇所あった。周りは黒く輪状の皮膚の火傷があったが、出血は殆どなかった。
「痛みますか?」
小鳥遊は静かに聞いた。
「いいえ…それほどでも。貴女のお名前は?」
「アン・ジョーンズ。」
「Ms.ジョーンズ。背中の傷を見せて貰えますか?」
アンで結構よ…と小さな声で言った。
「トーコさんそっと横に向けましょう。」
冬と小鳥遊は傷口を見て顔を見合わせた。10センチ程の大きな穴が開いており、そこからはたらたらと血液が流れ続けていた。
「トーコさん。仰向けで寝て貰いましょう。Ms.ジョーンズ。背中にも傷があるので、仰向けで寝てください。出血が抑えられますから。」
ガーゼをしっかりと当ててテープで固定をした。
「携帯用保温シートしかなかったんだけどこれで包みましょう。」
冬は銀色の大きなシートにミス・ジョーンズをくるんだ。
「私が傍に居るから大丈夫よ。」
冬は優しく声を掛けると、ミス・ジョーンズは頷いた。
額から血を流している男性が足を押えて不安そうにこちらを見ていた。
「そこのあなた!名前は?」
男に向かって声を掛けた。
「…トム・ウィルキンスです。」
「では…ウィルキンスさん。ズボンのベルトを外して、足の付け根にしっかり縛って下さい。血はそれで止まると思いますから、他の重傷者を見てからあなたも診ますから。」
冬は備品の入った買い物かごを持ってトムの所へ行った。
「トーコ。俺は大丈夫だ。痛みは我慢できるが少し寒い。」
冬は同じように処理をし、小鳥遊と妻の手を借りてゆっくりと横に向かせた。背中には大きな穴が開いており、出血量も多かった。
「おお…なんてこと。」
妻が思わず呟き、呆然としていた。
「ケイトさん?ケイト?僕を見て下さい。良いですか?…しっかりここを手で押えてて下さい。」
小鳥遊ははっきりとした強い口調で言った。トムの妻のケイトは、慌てて傷を押えた。冬はガーゼで傷を保護し、トムの身体の下に保温用シートを敷いた。
その間も、赤ちゃんは泣き止む気配が無かった。
「赤ちゃんとお母さん、それに負傷者は解放してあげたらどうですか?」
小鳥遊が静かに言った。
「マイクの傷をみることも出来るし、私をここに残して後の人達は解放してあげて。」
冬もゆっくりと静かに話した。
「僕も残ります。」
マイクもジェイも何も言わず、冬の処置を眺めていた。
冬は、足を撃たれた男性の所へ行った。弾丸の侵入口はあったが、出口が見当たらなかった。
「先生…ウィルキンスさんも盲管銃創です。」
「弾が貫通しないで、体の中に留まっているようです。2時間ごとにベルトを緩めて様子を見ますので、時間を覚えておいて下さい。」
小鳥遊はウィルキンスに向かって言った。
冬はウィルキンスの額の傷を確認してガーゼを当てた。先ほどから店の固定電話が鳴り続けていた。
「あーっもうっ!うるせえな。」
ジェイがはき捨てるように言った。マイクは足を撃たれ、引き摺って歩いていた。
「マイク…あなたも血が出てますね?僕に見せてくれませんか?」
小鳥遊はマイクに静かな声で言った。マイクは少し考えているようだった。
「ダメだ…女が見ろ…ちょっとでも変なことをしたら撃つからな。」
「判っています。」
冬はそっと近づいて、傷口を見た。脇腹の傷は擦り傷だったが、太ももからはジワジワと血液が滲み出ていた。
「マイク…あなたも弾が体の中に残ったままになってるわ。ベルトで足の付け根をしっかり固定して、2時間ごとに緩めてね。ガーゼを厚めに張っておくから。」
冬はそう言って、他の受傷者と同じく、テープの上にマジックで日付と時間を書いた。外は暗くなってきており、ヘリコプターが飛ぶ音が聞こえていた。時々サーチライトが店の中に入って来ていた。
その時、ずっと立ったままの二人組の女性の一人が、フラフラと座り込んだ。
「おい!動くなって言っただろう?」
ジェイがヒステリックに言った。
「貧血のようです。皆疲れてますし、座っても良いでしょうか?」
小鳥遊が女性を支えた。
「勝手にしろ!」
みんながホッとして座った。女性がおどおどしながらジェイを見た。
「あの…済みません。お湯を貰えますか?ミルクをあげないと…。」
赤ちゃんは泣き疲れてやっとウトウトしていた。
「どいつも面倒くさいこと言いやがって!」
ジェイがそういうと天井に向かって発砲した。キャッとカップルは耳を塞いだ。やっと寝た赤ちゃんがまた泣きだした。
「ねえ…赤ちゃんと女性に重傷者だけでも。」
冬が静かに言った。
「お前…さっきからギャーギャーうるせぇんだよ。」
ジェイが冬に向かって怒鳴った。
「大人と違って赤ちゃんは我慢が出来ないのよ。それでなくても皆疲れているのに…。」
冬はそれでも黙らなかった。
「お前 ぶっ殺されてーのか?」
「ジェイ…うっさいのはお前だよ。お前が黙れ。」
マイクが言った。
その間も赤ちゃんは泣き続けている。
「あーっもううっせぇなぁ!!赤ん坊黙らせろよ。」
ジェイが銃を向けると、母親は庇うように体を丸めた。
「…わかった。赤ん坊と女は出てけ。」
マイクはため息をついた。
「マイク…ありがとう。」
冬は言った。女性と赤ちゃんは正面の出入り口から出て行くと、サーチライトが煌々と照らされた。小鳥遊は腕時計を見ると夜の9時を過ぎていた。
…もう携帯のバッテリーは無くなって居る頃だろうか。
一番最初に撃たれたトムが、咳をしていた。小鳥遊はトムに近づくと、大丈夫ですかと声を掛けた。
「ああ…。だが少し気分が悪い…、」
顔色が悪く手足も冷たかった。
…出血が多すぎる。
小鳥遊はマイクの所へ行き周りに聞こえない様に囁いた。
「トムさんと、Ms.ジョーンズは、クリティカルな状態です。ふたりともこのままだと出血性ショックで亡くなってしまいます。」
マイクはじっと考えていた。
「多分あの電話は、ネゴシエーターからの電話でしょう。今すぐに重傷者は解放すべきです。」
「あいつらが死んだって、どうせ俺らだって殺されるんだ。ネゴシエーターだってどうせ俺たちを騙すだけさ。」
ジェイがはき捨てるように言った。
「ジェイ?トムとMs.ジョーンズよ。」
冬が言った。
「今はまだ、あなた達は殺人者では無いんですよ。」
マイクとジェイを交互に見ながら小鳥遊は言った。
「…それにネゴシエーターは、あなた達を騙すのでは無くて、あなた方を“死なせない”ようにする為にいるんですよ?」
その間も電話は鳴り続けていた。
「あーっもううるせーなぁ。」
ジェイは電話の受話器を持ちあげ、乱暴に切った。
「僕は医者と言っても脳外科医ですから、お腹の傷や足の傷には詳しくはありません。でも…少なくとも、トムとMs.ジョーンズは何科の医者が診ようと、僕と同じように言うでしょう。」
再び電話が鳴りだした。小鳥遊は感情を出さず、淡々と話した。
「判った…お前が電話に出ろ。余計な事を言ったら判ってるだろうな。」
今度はジェイが言いながら受話器を戻した。
「はい。」
鳴り続ける電話。小鳥遊はそれをゆっくりと持ち上げた。
「お前とあの女はここに残って貰う。それ以外は解放しよう。」
マイクが静かに言った。
「わかりました。」
小鳥遊が受話器を置くと、すぐに電話が掛かって来た。
「もしもし…Dr.Takanashiです。銃で腹部を撃たれた重傷者が2人。輸血と輸液が必要です。もうひとりは足に盲管銃創…。救急車を3台要請します。つき次第、ストレッチャーを3台寄こして下さい。僕がひとりで搬送します。これから僕とMs.トーコを残し、人質を解放します。」
そう言うと静かに電話を切った。
「5分したらストレッチャーを私達との距離の中間まで持ってきてくれるそうです。僕が行きます。ストレッチャーを持って来たら、怪我人を乗せるのを手伝って下さい。」
ガラガラと大きな音が外でし出した。
「では…来たようなので行ってきます。」
小鳥遊はとても冷静だった。出口へとゆっくり歩いてい行こうとする小鳥遊に冬が駆け寄った。
「どうか気を付けて。ガク愛してるわ。」
「僕もです。」
冬は小鳥遊の頭を引き寄せてキスをし、しっかりとお互いに抱き合った。
「お前が帰って来なかったり、下手な事をしたら、女を殺す。」
ジェイが小鳥遊に言った。
「判っています。」
小鳥遊は両手をあげながら出入口に立った。ライトに照らされ。小鳥遊の大きな身体は青白く光っていた。ゆっくりと歩いて行く小鳥遊の背中を冬は見送った。
…どうか気を付けて。
冬は食い入るようにその様子を見ていた。
小鳥遊はエントランスをゆっくりと出た。ライトが多方向から照らされて、眩しくて見えなかった。ストレッチャーの上には輸液一式が置かれていた。
「犯人は?」
医療チームの中に警察官がひとりいてあなたの機転のお蔭で内部の様子が判りましたと言った。
「若い白人の男性はマイク、年齢が同じくらいの黒人男性はジェイと呼ばれていました。」
「ストレッチャーにはそれぞれ足元と頭側に小型カメラが付いています。中の様子が分かる様に出来るだけゆっくり留まって下さい。」
警官と思われる男は早口で言った。
「判りました。では中に戻ります。」
そう言って小鳥遊はストレッチャーをガラガラと押して雑貨屋の入口へと戻った。ストレッチャーが来ると、まずはMs.ジョーンズから乗せた。冬はその間に点滴を準備した。
「ちょっとチクッとするわよ。」
そう言って、長い針を刺した。
「入った。点滴全開で良い?」
「はい。」
「じゃあ…行ってきます。」
患者と歩ける人質を連れて小鳥遊は出て行った。そして同じことを小鳥遊はひとりで2回、トムとケイト、そして足を撃たれたウィルキンスを運んで戻って来た。
小鳥遊の手には、抗生剤の点滴が握られていた。
「おい何だよそれ。」
ジェイが緊張した。
「マイクの化膿止めの点滴です。」
マイクはじっと小鳥遊を見つめた。
「警戒するのは良く分かります。信用するもしないもあなた次第です。ただ、傷が悪化すると足を切断しなくちゃいけなくなる事もあるので,しておいた方がいいと思います。」
小鳥遊は貰って来た点滴一式をカウンターの上に置いた。ジェイは少し緊張が溶けたのか、店の奥のドリンクコーナーへ行った。
「お前らなんか飲むか?」
ジェイは大きな声で、小鳥遊達に聞いた。
「…トーコさんは?」
「コーヒーと水をお願い。」「じゃあ僕も。」
ジェイは冬と小鳥遊の分も持ってきた。
「…ありがとう。喉が渇いてたの。」
冬は静かに言った。
「あんたたち中国人?」
マイクが聞いた。
「日本人です。」
冬が静かに言った。
「あんたら恋人?」
「ええ…まぁ。プロポーズを何度も断れてるんで、恋人以上婚約者未満でね。」
冬はチラリと小鳥遊を一瞥しただけで、何も言わなかった。
「さあトーコさん あなたの傷を見る番ですよ。」
「あなた達には恋人は居るの?」
冬が聞いた。
「今俺はフリーだけど、マイクは2コしたの彼女が居るんだ。」
ジェイが言った。
「高校中退して同棲してんだ。妊娠8ヶ月だけど病院へ行く金も無い。」
マイクが言った。
「彼女が妊娠していることはお家の人は知ってるの?」
冬が聞いた。
「ううん。知らないと思う。」
「じゃあ彼女はあなたが頼りなのね?」
マイクは答えず、床を見つめていた。時計を見ると深夜を過ぎていた。
「お腹が空きました。何か食べても良いですか?」
小鳥遊が聞くとマイクが頷いた。
「ガクさん私にも何か。あなた達は?」
ジェイとマイクが首を横に振った。
「僕はポテトブレッドにします。」
小鳥遊はゆっくりと立ちあがり、一番奥のパンの陳列棚へ向かった。
「トーコさん。お菓子も食べて良いですかね?」
大きな声で冬に聞いた。
「はいどうぞ。」
スナック菓子の袋をゴソゴソする音が聞こえた。
「トーコさん…どんなパンが良いですかね?ちょっときてください。」
「何でも良いです。」
「えーっと。Twi●kieでも良いですか?」
…自分が食べたいだけじゃん。
「色々あるんで選べません。」
小鳥遊はまた冬に聞いた。
「だーからー何でも良いです。」
この姿患者に見せたいわマジで…と冬が呟いた。
「えーっと。シリアルもありますよ?」
冬は小鳥遊のしつこさに違和感を感じた。二人の時には甘えて似たようなことをするが、誰かが居る前では決してしなかったからだ。
「おぃ!ドクター!何度も聞くなよ。彼女が何でも良いって言ったら良いんだよ!」
ジェイが叫んだ。
「脳みその事以外からっきしなんだから…。」
口で言いつつも、冬の頭はめまぐるしく働いていた。
「あ!あなたの大好きなオイル・サーディンがありますよ。オイル・サーディンですよ!!」
小鳥遊の間抜けな質問にマイクは失笑した。
「あいつマジで医者なの?」
それを聞いて冬はハッとし、笑顔が消えた。
「ええ…残念ながら。」
…どうしよう。来いって言ってるんだ。
「もう…めんどくさいから、行ってやれよ。」
冬はドキドキを隠してゆっくりと立ち上がった。
「わかったわよ。今行くわよ。」
冬はゆっくりと面倒くさそうな振りをして立ち上がった。
「あなたたちは、本当はいい子なのね。私達は救いたくても救えない患者さんを一杯見てきたの。私も死にたくは無いけど、あなた達にも死んで欲しく無い…。」
マイクとジェイの顔を代わる代わるに見て言った。
「お前…自分の命の心配をしろよ。」
ジェイが鼻で笑った。
「トーコさん…。」
小鳥遊が遠くからまた呼んだ。
「わかりました…今行きますから!」
冬はゆっくりと歩き出した。一番奥の商品棚を左手に曲がると、小鳥遊と裏口から入って来たSWATが息を顰めていた。
そこからはドラマのワンシーンのようにスローモーションで、時間が過ぎていく。
小鳥遊もSWATに、守られて押し出されるように出口へと連れて行かれ、冬は迎えに来た隊員に抱かれるようにして、連れ出された。
ーーー バシュッ…バシュッ…シューッ…シューッ。
真っ白な煙が充満した。
ーーー GO!GO!
隊員たちが続々と入って来て口々に叫んだ。
「Drop the gun! Drop the gun!」
冬と小鳥遊は隊員にそれぞれ待っていた救急車に連れて行かれた。
「どこか怪我は無いですか?」「あなたの名前は?」
矢継ぎ早に救急隊員が聞き、血圧計を巻いた。冬は店の入り口から目を離せなかった。
ふたりとも、SWATに連れられて出て来た。ジェイは暴れていたが、マイクは大人しく連れて行かれ途中で冬と目があった。
野次馬とニュースレポーターが待ち構えていて、マイクとジェイの写真を撮ろうと押し寄せていた。
冬はそれを見てホッとした。
「救急車で運ばれた人たちは大丈夫ですか?」
「お年寄りの女性は搬送後すぐに手術をしていると聞いてますが、あとは判りません。」
隊員は先ほど小鳥遊が処置したばかりの冬の額の傷を消毒しながら言った。別の救急車で小鳥遊もチェックを受けており、冬の様子を眺めていた。
「あの…すいません。何か紐のようなものってありますか?」
小鳥遊は、片付け始めた隊員に声を掛けた。
「紐?」
「ええ…何でも良いんです。」
隊員は救急車の中を見回した。あ…。じゃあと言って出したのはカードを首から下げるストラップだった。
「よく子供にあげるんだ。これで良いですか?」
「はい充分です。」
小鳥遊はハサミを借りて、それを短く切って小さな輪を作った。
冬は救急車のバック・ドアが開いた後部に寄り掛かるようにして、治療を受けていた。
近づいて来る小鳥遊に気がつくと、微笑んだ。
「オイル・サーディン嫌いなこと…ガクさんに言いましたっけ?」
冬が笑った。
「春さんが教えてくれたのを思い出したんです。なかなか来てくれないんで焦りました。」
小鳥遊はほっとしていたが、その顔が再び緊張したので、冬は不思議そうに眺めていた。
「いつ、あなたが死んでしまうか判りませんので。」
小鳥遊は微笑んでゆっくりと片膝を地面についた。
「OMG…OMG…。」
冬の治療をしていた女性の隊員達が、
二人の顔を交互に見た。
野次馬もヒューヒューとはやし立てるなか、小鳥遊はストラップで即席で作った指輪を冬の目の前に差し出した。
「トーコさん。僕と結婚してください。」
(こんな状況だったら断られないと思ったんでしょう)
冬は小さな声で言った。
(ええ。今しかチャンスは無いと思って。)
誰もが固唾を飲んで冬の答えを見守った。
(ガクさんには負けました。)
「Yes」
冬が笑いながら答えると、周りから拍手が沸き起こった。立ち上がった小鳥遊の首に手を回し長い口づけを交わした。
(ガクさん…ずるいわ。)
小鳥遊は微笑んで、冬をしっかりと抱きしめた。
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