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大人の恋の勧め
「ねぇ。今日準夜でしょ?当直室来ない?」
ナースステーションに誰も居ないことを確認し、小峠医師はねっとりとした甘え声で話しかけて来た。
「ええ。でも…。」
誰かが残したままの脳外科の雑誌を片付け乍ら、気の無い返事を返した。
「生でさせてよ。」
…コイツ…やっぱ無理っ。
看護師 月胜 冬 は考えていた。
「だってピル飲んでないですし…。」
生でしたいとか、今時ゴネる医者いる?
遊び上手な医師なら、そういうところを一番気を付ける筈じゃないのか?
それともこのハゲ…ただの馬鹿なのか?
「あ…これ明日の朝から飲ませてぇ…。」
小峠医師はPCのモニターを見ながら処方入力。
「緊急以外、オーダー変更は日勤でお願いしますって言ってますよね?」
小峠医師は、椅子から立ち上がると、じりじりと冬に近づいた。
「月性ちゃんなら余裕でしょ?薬剤部にもう電話しといたからさぁ…頼むよ。」
…こっちこそ頼むよ…緊急以外は、日勤帯で終わらせてくれよ。
「判りました。」
…早くここから立ち去りたい。
「ねぇ…月性ちゃん♩」
小峠医師が、冬の尻を鷲掴み。
「ちょっ…。」
大きなため息をつく。
…だ・か・ら!!公衆では止めようよ。
「あ…もう感じちゃったぁ?」
…お前は…やっぱり真性馬鹿だ。
さらに忍び寄る小峠の魔の指先から、
素早く逃げた。
「小峠先生…この際ですからはっきり申し上げてお…こ…。」
冬が声を荒げた時だった。
「戻りました~♪」
点滴の交換や、見回りから他の看護師が戻って来た。
「じゃあ…お願いね」
何も無かったように、そっと冬の傍を離れた。
(待ってるから…)
小峠は唇の動きで読めた。
「小峠先生…その指示絶対無理ですからね」
冬は去って行く小峠の背中に向かってため息をついた。
「トウコどうしたの?またこんな時間に指示変更?あの禿」
冬と同期の 岩田看護師が、
端末からデーターを入力しながら呆れた。
「うん…。」
冬は再びため息をついた。
「…ったく。ナースにちょっかい出す暇があったら、さっさと指示くらい出せ!ヴァーカ!!」
冬が忘年会の帰りに気が付いたら、ラブホテルで小峠が自分の隣に寝ていた…ってだけだ。それ以降しつこく誘われ当直の度に、ほぼ無理やり襲われた。
…なんでよりにもよって…小峠なんかと。
冬は禿げるかと思うほどに落ち込んだ。
バイタルチェックの患者をタブレットでもう一度確認してから、自分の勤務最後の検温に回る。
「見回り行ってきますー。」
他の看護師はPCの前に座っていた。
「はぁい…トウコいってらっしゃい。手伝い必要だったら言ってね」
点滴の残量を確認したり、モニターのチェックなど一回りするのに1時間。オムツや体位変換、重症患者が居る場合や、途中で担当患者にナースコールで呼ばれることもあるので、もう少し時間が掛かることもある。
経験が長くなってくると新人指導なども入り、大変なこともあったが、仕事はやりがいがあり楽しかった。
…今日はあの禿に合わず帰宅し、この先はこのまま…フェイド・アウトしたい。
タブレットと懐中電灯、体温計や血圧計、交換用の点滴などの備品を小さなカートに乗せて部屋を見て回る。
カラカラと小さな音を立て廊下を滑るようにカートは動いた。徘徊する患者は居ないが、一応…空き室も確認するのが冬の癖だった。空き部屋の前に来た時に、大きな腕がニュッと出てきて、冬を個室へ引っ張り込んだ。
「わっ」
冬は思わず小さな声をあげた。
…びっくりした。
「月性ちゃん…最近ちょっと冷たくない?」
ドアをすぐに閉め,小峠は鍵を掛けた。
…ホントに面倒臭いな。海に帰れ。
冬は大きなため息をあからさまについた。
…仕事もこんなに素早くしてくれたら良いのに。
「この前に、これで最後って私言いましたよね?」
…もう手が掛かる医者はこりごり。
「どうせ後で来ないつもりでしょ?じゃあさ…5分で済むからココで…しよ?」
…気持ちよくさせる気…皆無な禿。しかも人の話を聞いてないし。
逃げるのは諦めて、冬は白衣の下のガーター・ストッキングの上に履いたショーツを脱いだ。
「やっぱり月性ちゃんはいい子だね…。」
小峠もすぐにズボンを下す。全然気持ちよくないセックス。
…医者なんだからもう少しうまく出来ないもんかね。
冬はベッドに摑まり おしりを突き出した。
「もう僕は…パンパンなんだよ。最近君とご無沙汰だから」
…って他病棟の看護師ともヤッてるって噂があるけど?
”みんなに僕との関係をバラしちゃうから♪“
小峠はクリスマスの事件以来、冬の事を脅しては、断れない状況を作っていた。
コンドームを付けると前戯も無く押し入ろうとする。少々痛いがもう慣れた。
「君は締まりが良くって気持ちが良いんだよね。趣味で乗馬してるんだっけ?」
…おい禿…どこ情報だ。
「ええ…。」
乗馬には、忙しくて暫く行っていない。馬はいつも正直で優しい…そんなところに冬は癒しを感じた。それよりも何よりも、子供の頃に飼っていた愛馬を思い出した。
「ちょっと…股開いてくれる?」
…股って…もっとマシな言い方があるでしょ。
小峠は 冬の肩をがっちりと後ろから掴んでいた。その太い指は冬の細い肩に食い込んだ。挿入しようとするが、なかなか見つからないらしい。
身長差がなさ過ぎるのだ。
時間が気になった。
…点滴交換…アラーム鳴る前に交換しないと…。
カートの上の担当患者の点滴を見つめた。微量点滴装置にセットされた輸液が無くなる少し前には、アラームが鳴る様にセットされてる。
…早くしないと、誰か来ちゃう。
スタッフは、ナースステーションに輸液が患者の交換輸液が無ければ、必然的に、冬と、輸液を乗せたカートを探す。
冬は少々焦っていた。
「せんせ…騎乗位にしません?」
4畳程の狭い個室のベッドでのセックス…しかも相手は小峠では、興奮も何も無いつまらないものだった。
「それは良いね…。」
シーツ交換をしたばかりのベッドに処置に使う防水シートを敷いた。小峠が横になるのと同時に冬は跨いで座る。
「僕ね…毛が無くてツルツルが好きなの。日本人は少ないけど。それにガーターベルトなんてエッチで良いよね」
…ハゲ洋物好き確定。
「昔の彼氏がそういう趣味だったとか?」
…煩い黙れ。
冬は笑って誤魔化しつつ、間違っても白衣が汚れないようにたくし上げた。
「ああ…良いね。そうすれば良く見える」
冬は先端からゆっくりと自分の中へと小峠を沈めていく。
「あああ…君のは…本当に…ああ」
一番深くまで入ったところで、少し喘ぎ声を冬が出すと小峠は喜んだ。
…全然気持ちよくなんて無いから。
「乗馬するとあそこの周囲に筋肉が付くからね…締まりが良くなるんだよ。…ああ」
腰を使い、小峠をグリグリといたぶる。
「…ぅぅ…もっと深いのが良いね」
…早く…イケ。
小峠の腰に冬は打ち付けるように自分の腰を上下に動かした。乾いた音とベッドの軋む音が小さな部屋に響いた。小峠の太い指は冬の細くて白い腰をしっかりと押え揺らした…がタイミングが合わず、冬の動きを邪魔する結果になった。
…ああ…もう下手糞!
冬はもどかしくてイライラした。
「うぅ…。」
小峠は、冬の中でもう既に拍動し始めた。
「せんせぇ。どうして欲しいの?」
「もっと…早く…。」
冬は小峠医師の要望に応えた。
…自分で動いた方がまだましだ。
「繋がってるのを…よく見せて」
懐中電灯を小峠に持たせると、冬はベッドの柵に捕まり、大きく激しく動いた。
…この状態…ちょっと笑える。
それは不埒なふたりの接続部を煌々と照らした。
「はぁ~はぁ~良いよぅ…凄くぅ良いよぅ…。」
小峠は興奮しながら、ギラギラとした目で冬の中に出入りする短小のそれを凝視していた。
「月性ちゃんも 濡れてきたんじゃない?」
…こんなんで濡れるか。
「そう…かしら….。」
冬が演技をしているのも知らず,小峠医師は嬉しそうだった。
…といっても小峠はマグロで自分で動くだけ。
不覚にも冬は潤い始め、いやらしい音をたてた。
「す…凄い濡れてる。僕のおちんちんが気持ちが良いんだね?」
…気持ちよさに関係なく女性は濡れる事をコイツは知らないのか?
「い…いい」
…ここまでで約2分。
「あん…」
リップサービスの甘い声を耳元で囁く。
「トウコちゃん もう…我慢できない…出すよ…出すよ」
…名前で呼ぶな。
「うっ。」
昇天。
冬の業務の一環であるかのようなセックス。小峠が起き上がりズボンを履いている間に、使用済みのコンドームをカートの下の段に乗せた。
「言い難いんですけれど、私…今は小鳥遊センセと御付き合いしてるんです」
冬の声は、一気にビジネスライクな調子となった。
「えっ。そうなの?」
小峠は、直属上司の名前を聞いてたじろいだ。
「なんで…なんで?よりによって医局長と月性ちゃんなの」
動揺,困惑,怒り…が小峠の顔に次々と浮かんだ。
…ざまぁ見ろ。
冬は言い難そうな振りをして見せた。
「えー…なんでって…二人でいる時に押し倒されちゃったの。ずっと前から憧れてたし」
「月性ちゃん…それホントにホント?」
小峠は縮んだゴム臭いそれをズボンにしまって、ベルトを締めなおした。
「だから今日が最後…ごめんなさい。楽しかった…かな…では」
楽しかったと言ったのは冬の小峠への精一杯の優しさ。
小鳥遊 医局長は既婚の脳外科の医局長で、小峠の上司。真面目で渋め、ワイルドな働き盛りの40代。
仕事も早いし、他の医者と違って、看護師が催促や確認をしなくても指示漏れなども無い珍しく“完璧”な医者。
人望も厚く、浮いた噂は一切なしの上に、奥さん一筋…と噂があることも年齢を問わず、ファンが多い理由だ。
…そんなカタブツ医局長と寝た…なんて言ったら、そりゃ誰だって驚くよね。
冬はカートを押しながら、
小峠の驚く顔を思い出し笑った。
…そんなん…嘘に決まってるじゃん。
医師との“プライベートなお付き合い”は、面倒だった。顔も普通で取り柄と言えば痩せてるだけの、自分のような看護師は所詮、不倫や、遊ぶのに丁度良いと思われていると冬は分析していた。
それでも言い寄って来る医師がいるのは、
冬自身が思っているより美人で可愛らしかったからだ。
他の看護師とは余りつるまない上に、真面目で、分け隔てなく親切で、口が堅くプライベートもミステリアス。
そんな冬にとって小峠は普通なら、
相手にもしない部類。
…完全なるアクシデント。
病棟でも隙あらばベタベタしようとしてくることが、冬は何よりも許せなかった。
…見た目はイマイチ、遊びもセックスも下手な上に、仕事もできないって、マジで終わってる。
小峠は他病棟の看護師ともよく噂になった。それも何人も同時だった。その殆どは、看護師本人が他をけん制するために流しているようなものだ。
…そんなにまでして、あんな禿と付き合ったり、結婚したいとか信じられない。医者の肩書きが欲しいだけでしょ?キモいわ。
別段嫉妬もしなければ、詮索もしたくは無かった。点滴のカートをコロコロと押しながら、冬は次々に病室を巡回した。
…さらば禿!家に帰ってシャワー浴びて寝よっと。
♬*.:*¸¸
「高橋先生っ!新人と処置には行かないで下さい。必ずリーダーか、上の看護師に声を掛けて確認して頂かないと困ります。」
高橋医師が冬にまた怒られていた。
医師が看護師に注意をされている時には、
傍観者に徹する。逆の時も然り…だ。
小鳥遊 学医局長は、色々と部下に口出しをするタイプでは無い。
然し、高橋は注意を受けているのにも関わらず、口では謝りつつも、嬉しそうにみえるのは何故か?
…彼は月性さんのファン…なのか?
注意をしていた冬は、
今は柔かに新人看護師の対応をしている。
あっさりしていて、切り替えができる冬は、医師からも信頼されている様に見えた。
「また月性さんに怒られちゃった♪ついつい新人に頼みやすいから、処置の時も声掛けちゃうんですよね。」
聴かれちゃいましたか?と照れ隠しに笑いながら、小鳥遊の所へやって来た高橋医師。
「なんだかとても嬉しそうですね。」
小鳥遊は、口角を少しあげて薄く笑みを浮かべながらも、モニターからは目を離さず、重症患者の指示を入力していた。
「あの可愛い顔で怒られちゃうと、堪らないんですよね。」
高橋は、小鳥遊の隣の空いている席に座りオーダーの入力を始めた。高橋は小峠の後輩で、転勤したばかりだ。性格は素直で真面目である為に、注意を受ける事は多いが、看護師達には、頼りにされている。
癖も無く、看護師達の小峠への愚痴を聞かされる事も多い様だ。要するにそこそこ人気もある医師だ。
「そうなんですね…。」
小鳥遊は実は、彼自身も冬の事を気になっていた。
当然だが言えないし、自分自身が離婚した事も誰にも知らせてはいない為、“既婚者医師”の肩書きがついたままの自分が冬に相手にされるとは、到底思えない。
「では…あなたは小峠先生のライバルと言う事になりますね。」
医師も看護師も、誰が独身で、素敵で綺麗だとか、物腰が穏やかで優しいとか、不倫をしてくれそうだとか、密かに情報交換をしている。
…何処の病院でも良くみられる光景だ。
小鳥遊は笑った。
「小峠先生だったら、断然僕の方が有利だと思うんだけどなぁ。」
大きな独り言だ。それを認めて欲しいのだろうか?
…確かに。
小鳥遊は、言葉には出さずに含み笑いを浮かべた。
高橋は身長も高くみるからに、何かスポーツをやっている様な、がっしりとした体格をしている。高橋が“動”だとすると、小峠は“静”といったところだろうか。
看護師にちゃらんぽらんで叱られる小峠と、失念で叱られる高橋では、全く違う。
「あ…こんなこと言ったのは内緒にしてて下さいね。」
ナースステーションのPC前で身体の大きな医師ふたり、肩を並べてコソコソと話をしていた。話すのは専ら高橋の方だが。
「小峠先生と来たら、月性さんを追い回してばかりで、見ちゃいられませんよ。でも流石に彼女…上手く交わしてますけど。」
病棟のゴシップに疎い小鳥遊は、若い医師や看護師達から、噂話を聞くことが多い。ナースステーションに居れば、聞きたく無くても情報は、自ずと入ってくる。
「禿…またやらかしたらしいよ。他病棟で…同じ病棟の看護師ふたりに手を出して壮絶バトルだって。」
病室から戻ってきた中堅看護師達が、話しながらナースステーションへと入って来た。
「うわっ…なんであんな禿が良いの?信じられない…。」
「キモ過ぎ~。」
看護師は、丁度カウンターからは見えない位置で、指示を入力している、小鳥遊と高橋が、居ることも知らず、大きな声で話をしている。
「小峠先生は散々な言われ様ですね。」
小鳥遊は、その辛辣さに苦笑してしまった。
「他の病棟で、看護師漁りが激しいですからね…。いつも楽しそうでいいけれど、僕は…怖くて、真似できません。」
根が真面目な高橋は、普段から小峠よりも、小鳥遊と良く話をした。
それには何も答えず、小鳥遊はただ笑って聞いて居た。
医師の中には、手短なところで遊んでいる者も多いが、小鳥遊には理解が出来なかった。
…遊びならもっと上手くやらないと。
「あら…吹野さん?
お荷物持ってどちらに行かれるんですか?」
椅子から少し背伸びをして覗いてみると、冬が、患者に声をかけていた。
…脳神経内科の患者?
病棟は東西南北に分かれていて、北が脳外科病棟、南が脳神経内科病棟、ICUとER、オペ室からも近い。
…せん妄患者か?
「あ…あっと…どこへ?家だっけね?」
冬は同じペースでゆっくり吹野の隣を歩きながら、話しかけていた。
「ここ病院ですよ?具合が悪くて入院してるのよ。」
吹野は、トボトボと小さな歩幅で歩きながら、少し考えて居た。まだ60代後半ぐらいであろうか、顔に皺はあるものの艶々としていた。
「小鳥遊先生、すみませんが、脳内にお迎え来てもらえる様に電話して頂けますか~?」
小鳥遊に気が付いて、冬が声を掛けた。
冬は、また歩き出そうとしている患者に、
ちょっと待ってて下さいね~と、言いつつ寄り添っている。
「判りました。」
小鳥遊は、脳神経内科病棟に電話を掛けたが、
呼び出し音が鳴るだけで、誰も出なかった。
「月性さん!脳内の看護師さん出払ってるみたいです。」
「ありがとうございます。じゃぁ病棟にお連れしちゃった方が早いかしらね。」
冬は、脳神経内科病棟へと、ゆっくりと話をしながら歩いて行った。
「僕も、暇だから月性さんに、ついて行っちゃおっと♪」
高橋医師は、オーダー入力もそこそこに、冬の後をついていった。
…やれやれ。
冬が、新人として入って来た時のことを、小鳥遊はよく覚えていた。
幼い顔をしているのに、スタイルが良く、可憐で可愛いらしいので、院内でもちょっとした騒ぎになった。
他科や、院内の合同イベントがある度に、脳外科に可愛い人が居ると噂になった。
小鳥遊も、病棟会などで話す機会はあったが、プライベートでの関わりは、当然だが皆無だった。
病院近くのラーメン屋で、数人の看護師と鉢合わせし、その中に冬がいた。
他愛の無い話をしたが、すぐに小鳥遊が食べ終わり、何も言わず、看護師達の支払いも併せて済ませて席をたった。
医者は、スタッフとの連携が欠かせない。
患者の為にと働くが、緊急入院/手術等、無理を押し付けてしまう事も多々ある。
医療に関わらず、どの職業でも
お互い“持ちつ持たれず”な関係が、必要だが、特に医療スタッフの連携は、患者のケアの質の向上に深く関係してくる。
楽しく食事を食べる看護師やスタッフの中に、
冬が居たからでは無く、知った顔のスタッフを同じ店で見かけたら、小鳥遊は、常に纏めて支払いを心掛けていた。
今時の若い子は、院内で顔を合わせてもお礼を言われない事も多いが、小鳥遊はそんな事は全く気にしていなかった。
ただ、冬は毎回必ずお礼に来ては、その費用をわざわざ返しに来ると言う律儀なところもあった。もちろん小鳥遊は受け取らなかったが…。
そんなところも、小鳥遊は冬の事を、年齢の割にはきちんとした人…との印象を持っていた。
「医局長。」
小峠が外来を終えて病棟へ、上がって来た。
「ちょっとお聞きしたいことがあるんですけれど…。」
小峠は看護師達に禿と言われている。そのあだ名の通り、30過ぎから禿はじめ、今ではM字を通り越し、潔く丸坊主にしている。
要領が良く、手術はそこそこうまいが、病棟での仕事を面倒臭がるので、看護師達には、嫌われていた。
「何でしょう?」
小鳥遊は術後患者のCTを見ていた。小峠も小鳥遊の後ろからその画像を覗き込んだ。
「あ…結構腫れてますね…点滴増やさないと駄目ですね。」
…この男は、脳外科医としてのセンスはあるのに。
小鳥遊は小峠に対し、ふとそんな風に思った。
「そうですね…今日の夜から増やしましょう。」
点滴のオーダーを入力し、担当の看護師に声を掛けた。
「先生が、月性さんと付き合ってるって本当ですか?」
小鳥遊は突然聞かれて驚いたが、顔には出さなかった。
「押し倒したって…聞いたんですが。」
小峠が、小鳥遊の反応を窺っている。
冬は、常に上手にあしらって居る様だが、本心は良く判らなかった。
「…どうなんでしょうねぇ。」
否定も肯定もせず、次々に患者の頭部CTの確認を続けた。
「先生と付き合ってるから、デートに誘わないで下さいって…言われちゃいましたよ。」
小峠も、小鳥遊の様子を伺うようにして聞いた。
「なるほど…そうですか…。」
…そういうことか。
「小鳥遊医局長!ERから電話です。」
病棟師長が、タイミング良く声を掛けてきた。
冬本人が言っていたという事は、もしかしたら自分にもチャンスがあるんじゃないかと密かに思った。
小鳥遊は否定も肯定もせずに、席を立ち電話に出た。
冬と、プライベートな会話を出来るチャンスを貰えた訳だ。
使わない選択は無いだろう。
…ただ、どうやって、冬にその件について聞こうか。
最適解を探さなくてはならないと小鳥遊は思った。
♬*.:*¸¸
翌日の準夜勤。
月胜 冬は、
出勤するとすぐに、メンバー、空床状況、準夜勤の管理看護師長、当直脳外科医師の名前を確認した。
…今日の当直は、小鳥遊先生ね。
重症患者や、新規で入院してきた患者、ERから日勤で病棟へと転病棟してきた患者、準夜勤で手術室から病棟へと戻る予定の手術患者。内服、点滴管理等、深夜勤勤務に比べて準夜勤は、基本的に忙しい。
冬は、小鳥遊の名前を見てほっとした。
医局長の小鳥遊は、当直に入らなくても良い立場。
それでも月に1-2度は、当直に入るのは、病棟の様子を知りたかったからだ。
「月性さん!今日は医局長ですって。」
「超ラッキーじゃないですか?久しぶりに当たった~。」
「わーい♩今日は、月性さんも居るし、楽勝っすね。」
新人や若い看護師達は、現金だ。
冬はそれを聞いて笑った。
「あとで、きちんと医局長にお礼ぐらい言わなきゃダメよ。」
先に出勤していた後輩看護師達は、冬をみると嬉しそうにはしゃいだ。
小鳥遊は当直時、病棟スタッフに夕食をご馳走してくれた。高級寿司、有名店のピザやカレーなどだ。
しかもERが空いてれば、暇があれば看護師の希望を聞きに来るマメさまであった。
…きっと奥様もしっかりされてる方なんだろうな。
他の医師より数倍忙しい筈なのに、その素振りすら小鳥遊は見せない。
悪く言えばミスが全く無いロボット、良く言えば、チームで働くにはパーフェクトな医者だ。
…小鳥遊先生ってプライベートでも完璧過ぎて、逆に奥様は大変かも?
冬は以前から密かに慕い尊敬していたが、殆ど話す機会が無い…というよりも余り話す必要が無かった。
何故なら、スタッフの確認が必要な曖昧な指示は決して出さないし、スタッフの人数が少なくなる準夜勤や夜勤には、検査などのオーダーを極力避けてくれた。
薬剤部へ薬を貰いに行ったり、患者搬送を手伝うなど、部下以上にフットワークも軽い。
冬がこの病棟に来て5年になるので、研修医や若い医者からすれば、お局看護師の部類だ。
…もっとマシな指示を書いてよねっ!
内心ぶち切れつつも、冬は全てのスタッフに、分け隔てなく対応し、とても面倒見が良いので、信頼は厚かった。
小鳥遊は患者がERに来ない限り、遅くまでステーションで部下達が漏らした指示を埋めたり、データーの確認する。
冬が見回りから戻ってくると、小鳥遊が患者のCTを見ていた。
ふと視線が合った。
「いつも、スタッフ・メンバーに、ご飯をご馳走して頂いて、ありがとうございます。」
冬は夕食のお礼を述べた。
「いやいや…そんなこと気にしないでください。看護師さん達の方が僕達よりも、大変ですから」
笑いながら、モニターで次々と患者の画像データーを確認していく小鳥遊。
「月性(げっしょう)さん…最近調子はどう?」
「え…っと…。」
話はいつもの様に、すぐに終わるかと思っていたが、続けて小鳥遊が話しかけてきたので、身構えた。
「か…変わりありません…あ!そうだ。看護師や理学療法士とも話してたんですが、また小鳥遊先生とみんなで、ご飯を食べに行きましょうって。」
いつもご馳走になってばかりなので、いつか親睦を深める為にも、みんなで食事へ行きましょうと時折スタッフと計画するのだが、小鳥遊が忙しく実行できないでいた。
「あーそうでしたね!以前もみんなに誘って頂いたのに、緊急オペで、ダメになっちゃいましたよね?」
「先生もお忙しいとは思いますが、他の部署から移動してきた人も居るので、是非~。」
院長や医局長、師長も含めなど、役職付きとの交流がたまにはあっても良いと冬も思っている。特に小鳥遊は素敵で人気があるけど、無駄話などできない様な雰囲気もあった。
「僕を誘ってくれる看護師さんは、月性ぐらいですよ~。」
「またまた~。ファンが多いから、病棟後回しになっちゃうんでしょう?この病棟にも小鳥遊ファンの子多いのに…。」
…お世辞と分かってはいても、月性さんに言われると嬉しい。
小鳥遊は他のスタッフと、冗談を言ったりふざけたりすることもあるが、冬とは殆ど、世間話などをしたことが無い。
「そういえば…。」
切り出すなら今がチャンスだ。
「小峠先生から聞いたけど、月性さんって乗馬してるんだって?」
「えっ…ええ…。」
小峠の名前が出たので、一瞬冬は身構えた。
「へぇ…どこの乗馬クラブ?」
小鳥遊は常に、真っすぐに眼を見て話す。
大きくて形の良い瞳は、いつも優しさを湛えていて、冬の返事を興味深げに待っていた。
「クラブには入って無くて…友人が所有する馬に乗せて貰っているだけです。」
あと2時間ほどで消灯時間だ。
「なるほど~……それと…そう言えば…ですけどね…。」
小鳥遊は少し間を置いた。
ふたりの周りには、他のスタッフもいないし、夕食後の束の間の休息時間で、患者も余りナースコールを押さなかった。
「小峠先生が…さりげなく聞いて来たんだけれど、僕と君が…。」
小鳥遊は冬の様子を伺うように聞いた。
「…‼︎」
冬はハッとして、その緊張は一気に高まった。
…まずい…まずい…バカバカバカ!!!!!
「あ…余りにしつこく…その…デートに誘われたもので…つい先生のお名前を出してしまいました。ホントにすみませんでした。」
冬は慌てて頭をさげたが、
顔も耳も完熟トマトの様に真っ赤になった。
その様子をじっと観察している小鳥遊。
流石に確認も出来ないだろうと思って、あの時は、咄嗟に小鳥遊の名前を出した。
「彼は…女癖が悪いって聞いたことがあったけれど、噂は本当だったんですね」
小鳥遊は気にする様子も無く、
にこにこしていた。
「すみません。まさかハ…小峠先生が、小鳥遊先生に直々に確認する…とは思わなくて…。」
冬は、小峠が自分の事を諦めると思ったからだったのだが、それが裏目に出た。
「あの…ホントに…申し訳ありません。」
いつもとは違って、あたふたして落ち着かない冬を見ているのは楽しい。
「これからは、彼の前では仲が良い振りをしなくちゃね♩」
小鳥遊は、恐縮する冬をよそに、完全に楽しんでいた。
「いえ…あの…本当に…本当にすみませんでした。」
あなたは謝る必要は無いですよ。しつこいあの人が、いけないんですから…と小鳥遊は笑った。
…相手をアイツとは関わりの少ない、他科の医者にしときゃ良かった。禿めっ!!
「僕は…。」
小鳥遊は、また少し言葉を溜めた。
「噂になる相手が、あなたなら…とても嬉しいですし、光栄です。」
「…‼︎」
爽やかな笑顔を浮かべた小鳥遊に、冬は不覚にもドキドキしてしまった。
目尻には笑うと皺が出来て、
とてもチャーミングだ。
…どういう意味なのだろう。
小鳥遊の笑顔に
クラクラし始めた時、良い具合にコールが鳴った。
「…先生ホントにすみません。失礼します。」
冬は、小鳥遊の前から足早に立ち去ったが、
その後ろ姿を、みてクスッと笑った。
夜勤者への患者の状態などの申し送りも終わり、準夜勤者が、そろそろ帰ろうとしたところだった。
内線が鳴ったので、新人が電話をとった。
準・深夜勤者の間に、一瞬ピリついた緊張が走る。
「月性さ~ん!小鳥遊先生からです~。」
皆の視線が今度は冬に集中する。
…緊急入院じゃありません様に。
スタッフ全員が同じことを考えてるのが、冬には分かった。
「小鳥遊です…。あの…申し訳無いんだけれど、空いてるタブレットを当直室へ持ってきてくれますか?患者が来てて、緊急で指示を出したいんだけど、当直室のタブレットの調子がおかしくって…お願いします」
本当に済まないけれど…と付け加えた。小鳥遊の言葉は、どんなに忙しくても、いつも相手を思いやる優しさがあった。
「判りました。当直室にタブレットですね?申し送り終わったんで、私がそちらにお持ちします。」
…ほっ。
スタッフ達は、それを聞くと、再び自分の作業へ血戻った。
「お疲れさま~。医局長に、予備のタブレット渡したら、帰りますね。」
冬はタブレットを抱えて病棟を離れた。当直室は更衣室からも近いし、ついでだった。
先ほどのドキドキが、再燃した。
…噂になる相手が私なら光栄ですって確かにさっきそう言ったよね?聞き間違いじゃないよね?
どのような顔をして合えばよいのかも分からないので、小鳥遊が外来へ呼ばれている間に、タブレットを置いて帰りたかった。
当直室は各科の医者にひとつづつに割り当てられていた。簡易ベッドになるソファ、シャーカステンの他に、辞書や医学書なども備え付けられており、小さなキッチンや冷蔵庫等が備え付けられている。
――― トントン。
当直室のドアをノックするが返事は無い。
「失礼します」
冬はドアをそっと開けた。
電気は付いていたが、小鳥遊の姿は無い。
夕食に頼んだ、店屋物のかつ丼が手付かずで、届けられたままの状態で置いてあった。
…救急外来に呼ばれて今日は忙しいんだ。
冬はテーブルの上にタブレットを置き少しほっとした。
…そうだ患者さんに貰った缶コーヒーがあった筈。置いてってあげようっと♩
鞄にゴソゴソと手を突っ込み、
缶コーヒーをかつ丼の傍に置いた。
冬が立ち去ろうとした時だった。
突然ドアが開き、小鳥遊が入って来た。
「わっ!驚いた…。」
…盛大に驚き過ぎだ。
いつも冷静沈着な小鳥遊が、
驚く姿が可笑しくて、冬は思わず噴き出した。
「ごめん…ごめん。自分で頼んでおいたのに…月性さん来ること忘れてました。すみません。」
びっくりしたと胸を抑えながら、恥ずかしそうに笑った。小鳥遊が、テーブルの上のコーヒーに気付いた。
「患者さんからの頂きものですけれど、良かったらどうぞ。それでは…。」
冬は、慌てて説明した。
「あ…ありがとう。でも…僕…買って来ちゃっいました。」
見ると、ポケットから取り出したのは偶然同じ種類のコーヒーだった。
「外来も途切れたし食事も出来そうだから、月性さんコーヒー飲んでいきませんか?もう準夜お終いでしょう?」
小鳥遊は、部屋に付いている小さなキッチンで手を洗いながら言った。
「…ええ」
今買って来たばかりのコーヒーを冬に手渡した。
「あ…私こっちを飲みますから…。」
「いいの。いいの」
小鳥遊は、さっさとテーブルの上の生温いコーヒーを開けると、冬が持ってきたタブレットで、患者の撮れたばかりの画像を確認しながら、失礼しますと言って、丸椅子に座りご飯を食べ始めた。
「で…小峠先生との話だけど…何時からだったんですか?」
冬に大きな背中を向けたまま、急に話し出した。
…既にヤッた前提。まあ、本当のことだ。
その方が冬は話しやすかった。
「去年の忘年会で酔いつぶれた時に、気が付いたら、小峠先生が隣で寝てたんです…でも私…全く覚えて無いんです。」
…そうだ…それだけにしとけば良かった。
「なるほど…そうでしたか」
小鳥遊はまるで患者を問診するように静かに聞いた。
「その後からしつこく誘われて…困っているんです。2人の関係をみんなにバラすぞって脅されて…ずるずると…。」
冬をチラリとみたが、小鳥遊は、再び視線をタブレットとカツ丼へと戻した。
「しつこく…ですか。マメなのと、しつこいのは紙一重ってことですね…。」
小鳥遊はかつ丼をあっという間に食べ終わってしまった。
「じゃあ…面倒臭く無い僕と…でしたらOK?貴女を脅したりしませんし…。」
ふふっと笑うと、冬をじっと見つめた。
冗談か本気なのか、判断がつかない。
「おっしゃっていることが、良く分からないのですが…。」
冬は戸惑いを隠せなかった。
「僕となら、月性さん付き合ってくれる?」
「…。」
冬はショックだった。
小鳥遊も他の医者と変わらなかったのか…と。
「お誘い頂き、大変光栄なことですが…。」
小鳥遊は、冬を真っ直ぐに見つめたまま、
返事を静かに待っている。
「あの…奥様がいらっしゃる方と…あの…不倫は…出来ません」
小鳥遊は丸椅子に座ったまま、くるりと冬の方に向き直った。
「僕は今…妻と別れて独身ですけれど?」
小鳥遊は、真面目な顔で冬に告げた。
…えっ。
「去年の12月です。」
小鳥遊に限って嘘は無いと思った。
…こんなこと嘘で言えるとしたらそれこそ軽蔑してしまう。
「知りませんでした…。」
「うん…だってまだ誰にも言ってないもの。僕が離婚したことを知ってるのは、今現在は、月性さんだけです。」
きょとんとしている冬に言葉を続けた。
…そんな事を医師の間では無く、私に最初に言う意味が分からない。
「僕は、月性さんのそういう生真面目な所が好きです。真っすぐで。」
冬に蕩けそうな笑みを浮かべた。
「でも…全然…真面目じゃないです」
冬も噂が拡がらないところで、それなりに遊んでいた。
結婚を前提に付き合うとか、彼氏を作るよりも、適当に遊んでいる方が冬は楽だった。
小鳥遊が、流しへ食器を置いたところで、救急外来から呼びだしの内線が鳴った。
「返事…急がないから…考えてくれませんか?次の僕の当直日ぐらい迄に。では…お疲れさまでした」
小鳥遊は当直室から風の様に去っていった。
…ちょっと待て。一体何が起こったんだ?今。
落ち着く時間が欲しかった。冬は流しへ行き、医局長が今食べ終わったばかりの器を無意識に洗っていた。
…年齢がおよそ一回り違う小鳥遊医局長と付き合う?
確かに尊敬していたし、小鳥遊は、外見も魅力的で憧れていた。それがホントであれば、興味は…ある!
…これは…きっと悪い冗談だ。
冬は洗い終えた食器を、キッチンペーパーで綺麗に拭きながら自分に言い聞かせた。
♬*.:*¸¸
―――数日後の日勤。
小鳥遊は、いつものように朝早く来ては、スタッフと軽い冗談を言って笑っていた。
冬が挨拶をすると、優しい笑顔を浮かべておはようございますと返した。
朝のミーティングが終わり、患者の元へと向かう。
不意に背後に気配を感じ、振り返ると小峠が立っていた。
…‼︎
「あれが最後じゃ寂しいから…食事行こう♪小鳥遊先生とだなんて…他に好きな医者でも出来ちゃった?」
冬の尻を鷲掴みにした。
…禿。一度死ね。
「ちょっと…他の人に見られますよ。」
完全に仕事モードのスイッチが入っている冬は、軽くあしらった。
「ねぇ…最後はちゃんとホテルでお別れしようよぉ」
意識の無い患者の部屋へと入ると、小峠も後をついて来た。
「先生とお付き合いをした覚えは、ありません。私に構う暇があったら、沢山いらっしゃる彼女さん達を大切にして差し上げたら、どーですか?」
備品の不足や、ドレーン類に点滴など…トラブルは無いかを、丁寧に確認する。
「あ~もしかして…月性ちゃん…嫉妬してるの?」
シーツの皺を整えて、ベッド柵や棚などを除菌用シートで丁寧に拭く。
嬉しそうに小峠は白衣のポケットに手を突っ込んだまま聞いて来た。
…スナップ利かせて,その禿げ頭をぶっ叩いてやろうか?
「…だから,もう別れるとか,臍曲げちゃった?」
冬が患者の吸引をすると人工呼吸器のアラームが鳴り、それを小峠がすかさず止めた。
「体位変換手伝って下さい」
…居るなら働けよ。ハゲ!
人口呼吸器の蛇腹を小峠に頼み、冬はゆっくりと患者の身体を横に向けた。患者の背中に床ずれが無いか等も、確認しつつ衣類の皺を伸ばす。
「女の子なんていないよぅ」
…嘘つけ禿。他科の看護師が嬉しそうに話してたのを聞いたぞ。
人口呼吸器の位置を整え、小峠は、今度は冬に変わり、反対側に患者をゆっくりと横に向けたまま支えると、その間に冬はすかさず枕を当てがう。
「では…外科の子は?」
小峠は、その間に人工呼吸器の設定を確認しつつ、冬はその隣で吸引を行う。
咳嗽反射が起こり、アラームが病室内に響く。
その度に小峠は、アラームを切った。
冬が冷たく聞くと、小峠の言葉が一瞬滞った。
「あ…あれは友達だよ」
小峠は、神経質な笑いを浮かべた。
…このタコ…完全に目が泳いでいるぞ。
海へ帰れ。
「心療内科のクラークさん…でしたっけ?とっても可愛らしい人ですよね」
小峠の反応を冬は観察していた。
「あぁ…あの子?言い寄られているだけ」
小峠は、完全に動揺している。
…笑止!お前が言い寄ったんだろーが?
「もうおしまいです。」
冬は冷静に小峠をじっと見据えた。
「ホテルが嫌なら、
今度、僕のマンションに来て話そう」
…どっちも嫌じゃ!ボケッ!
ふと個室前にある、ナースステーションに小鳥遊がいるのが見えた。
「無理です…。お話はこれでおしまいです。」
PC前に座っていた小鳥遊と冬は目が合った。
「え~寂しいなぁ。月性ちゃん僕を信じてくれないの?僕は君に一途だよ?。」
…黙れ!虫唾が走る!!
愚図る小峠に手を焼いていると、小峠の背後から小鳥遊が突然現れた。
「小峠先生,来月の当直のことでお話があるんですけれど…ちょっと良いですか?」
小峠は、ビクッとすると慌てて振り向いた。
小鳥遊に聞かれていたかも知れないと、焦った様だ。
「小峠先生は、もしかして月性さん狙いですか?実は僕もなんですよ…。」
冗談とも本気ともつかないことを言うと、
小峠を連れ出した。
…ああ もう!
心臓に悪いよこのシュチュエーション。
去り際に小峠は、懲りずに冬に言った。
「僕は…関係を公にしても良いと思ってる」
小鳥遊もそれを聞いて苦笑い。
…だが 断る。
「そんなことしたら,恋人が沢山いらっしゃる小峠先生が困るんじゃないでしょうか?」
「はいはい…痴話喧嘩はそこまでにして…小峠先生…。」
小鳥遊はなだめる様に小峠を個室から連れ出した。小鳥遊を味方に付けた以上、怖いものはなかった。
…言いたいならどうぞ。誰も信じないと思うけど。
♬*.:*¸¸
冬は病棟師長に呼び出された。
「学会へ行ってみない?」
「…学会?ですか?」
…って医者の…よね?
医師学会で小鳥遊が症例発表をするのだが、
助手を頼めないかという話だった。
「有給消化になっちゃうけど?あなた行ってくれない?新人じゃ無理だし、あいにく私も行けないの」
毎年、病棟師長か助手で付き添う学会だ。
「…分かりました。お引き受けします」
冬は即答した。
「良かったわ~♪他のスタッフじゃ、心許なかったのよ」
師長は、人望の厚い冬を頼りにしていた。
今は空席になっている主任のポストに、
冬が就くのでは無いかと、スタッフの間で噂されている。
「では、お願いしますね。小鳥遊先生には伝えておきますから。」
師長は他のスタッフに呼ばれて、去っていった。
小峠は相変わらずしつこく冬にアプローチし続けていたが、小鳥遊医局長は約束通り?さりげなく冬から小峠を引きはがした。
…ポーカーフェイスの医局長。グッジョブ!
あの‟あなたが相手なら光栄です事件“以来、
何も変わったことは無い。
毎日が忙しく過ぎて、あれは夢だったのか?と冬は思うようにさえなった。
…夢でもちょっと得した気分♪
そんな風に冬は思っていたある日。
患者を検査に出す為、エレベーターに乗り込むと、偶然小鳥遊が先に乗っていた。
「お疲れ様です」
冬は車いすに乗せた患者と共に乗り込んだ。
「息子の嫁に来てよ。美人だし、しっかりしてるし、歳は少し上だけど、今の時代そんなのあんまり関係ねーだろ?」
歳は少しじゃ無くて、
かなりの姉さん女房ですよ?と冬は笑った。
「面会に来た時にさ、月性さんのことを気に入ったみたいで…電話番号聞いといてって頼まれちゃったんだ」
小鳥遊にも説明している患者。
病棟には若くて可愛いスタッフが沢山居るのに、何故自分なのかと、冬は笑って相手にしなかった。
「あいつは、なかなかここに来れないし,来る時には月性さん居ないんだよね。だからね、こうして俺が息子の為に聞いてやってるの」
エレベーターはゆっくりと静かに降りていく。
「タバコ吸うな、酒飲むな、油ものは控えて…とか煩い嫁になりますよ?それに嫁になっても、仕事は続けたいですし、専業主婦は無理ですよ?」
結婚して家庭に入ることなど、想像できなかった。
「そんなことぁ判ってるよ。でもこの間…若造に告白されていただろう?あいつは絶対駄目だ。ありゃヒモになるタイプだ」
冬はケラケラと笑い、
患者の情報網に関心した。
「えっ?月性さんそんなことがあったんですか?誰だろ…?」
小鳥遊が口を挟んだ。
「あぁ…SAHで入院されていた遠藤さん…のお友達です」
冬はエレベーターの表示の数字がどんどん減っていくのを眺めていた。
「それだけじゃ無いだろ?高橋先生だって月性さんのことが好きだって言ってたぞ」
「えっ?」「そうなのっ!!」
小鳥遊と冬が同時に声をあげた。
脳外科の若い大人しくて、人畜無害の医者だ。
「知らなかったんですか?」
小鳥遊が再び驚いて口を挟んだ。
「知りませんよ!びっくりです…。仕事が、し難くなるので、聞かなかったことにしますっ」
冬が真面目な顔で答えたので、小鳥遊はそれが無難ですねと笑った。
「まぁ~上司の居る前で言うのも何だが、手癖の悪い小峠先生よりも高橋先生の方が真面目で良いと思うんだよね。あーあ。やっぱり高橋先生が相手じゃ俺の息子に勝ち目はねぇなぁ…。」
物知り顔でいう患者に小鳥遊も冬も思わず噴き出した。
「あと…は…ほら…誰だっけ?」
小鳥遊は、患者の話に聞き耳を立てている。
冬は慌てた。
「あーっ。もう良いですよ!何でそんなにゴシップに詳しいんですか?」
…変な汗が出てきた…ょ。
「そんなことはどーだっていいんだ。要するに息子のライバルは一杯居るってことだ。どうせ彼氏居ないんだろ?」
…どーせって何さ。
小鳥遊が横でクスクスと笑っている。
「彼氏が居るって申し上げたら、諦めてくださいます?」
「えっ?彼氏居るの?」
患者と小鳥遊が同時に聞いた。
…医局長…何で会話に混じってるの?
「いえ…居ないですけど」
とても小さな声で冬は答えた。
「なんだよ月性さん。びっくりさせやがって!」
小鳥遊が声を出して笑ったので、
冬はじろりとにらんだ。
「今度息子に電話番号教えてやってくれ。頼むっ!!お願いだ。」
冬はただ笑うだけで、それ以上は返事をしなかった。
「僕だって月性さんの電話番号知らないのに…ずるい」
医局長が口を挟んだ。
「そりゃぁ…小鳥遊先生は奥さん居るんだろ?それなのに看護師に手ぇ出しちゃぁ…まずいでしょう」
「うん…確かに」
小鳥遊は神妙な顔をして頷いた。
…そうだ離婚したことを公表していないんだっけ?
そして患者と笑った。
ーーーチーン。
エレベーターのドアが開き、小鳥遊は降り掛けた所で、ああそうだと言って、大きな手で閉まりそうになるドアを止めた。
「あ…月性さん。後で、当直室にちょっと来て貰えますか?」
…あ…そっか。今日は先生が当直か。
「あ…はい。わかりました…。」
冬は、そう言い残して足早に去る小鳥遊の背中を、ドアが閉まるまでじっと眺めていた。
「月性さん…小鳥遊センセはカッコ良いけど、奥さん持ってるひとじゃぁ駄目だ。不倫は止めときな。」
「大丈夫ですって。」
冬は笑った。
「小鳥遊先生みたいに、仕事が出来る男はね、女遊びも激しいって相場は決まってんの!
泣くのは女だからね…」
その様子を見て、患者が真面目な顔で諭した。
冬はエレベーターを降りてから気が付いたが、小鳥遊の院内携帯は知っていても、流石にこんな事でかけるわけにもいかない。
いつ当直室へ行けば良いのかも分からない。
…連絡…どうしよう。
日勤の間、色々考えていたが、そんな心配は無用だった。日勤終わりに緊急入院が3件入った。
「もう…マジで…信じられない。」
冬の同僚岩田が呟いた。
それに賛同して看護師達は頷いた。なんで、師長はベット空いてるからって他科取っちゃうかなぁ。しかもその後2件 ヘビーなのだし…と看護師達の口からは次々に文句が飛び出した。
「手伝うから、目標20時!」
「えええーっ。」
「月性さん絶対そんなの無理だよ…。」
「もしそれまでに終わらなかったら、ご飯おごっちゃう♪飲みにでも良いよ。」
こういう時こそ、遊び心が必要だ。
「マジで?月性さん一緒に行ってくれるの?!だったらゆっくり仕事しよう♪」
「コラ…そんなの駄目」
若い子達は一気に盛り上がった。小鳥遊医局長が病棟にあがってきた。
「みんな本当に…済まないね。後でピザ頼むから許して…」
小鳥遊が済まなそうに言った。
「わーい♪ それなら私頑張れそう!」
若い子たちも一斉に張り切った。他の医者は外来がまだ忙しいと言って病棟には上がってきていなかった。
「出てない指示や処方が合ったら、僕が出しますから言って下さい。あと入院指示書くから…担当看護師さん誰~?」
小鳥遊の仕事は早く無駄が無い。
しかもそこに居るだけで、士気があがる。
新人二人が入院を取ったが、冬が手伝った。1時間後には看護計画を立てるだけの状態になった。
「うわぁ…まだ7時前だぁ。今日は小鳥遊先生が居てくれたし、月性さんに沢山手伝って貰ったから早く終わったぁ~。後は看護計画だけだから楽勝。」
日勤と準夜勤者に小鳥遊が頼んだピザが届いた。狭い休憩室で皆で肩を寄せ合って、ワイワイ言いながら食べた。その様子を小鳥遊も冬も嬉しそうに眺めていた。
「医局長~。小峠先生に時間外に大量に指示を変えたり、オーダー出すの止めて貰うように言ってください。」
3年目の看護師が小鳥遊に直訴した。
「あぁ…どおりで、準夜勤で薬剤部から薬が沢山あがってくるなぁと思ってたんですけどね。」
小鳥遊は看護師に言われる前に気が付いて既に小峠には注意をしていたのを冬は知っていた。
「もう~新人さんも独り立ちして夜勤に入るようになったから…。仕事をこなすだけでも大変なのに、臨時オーダーなんて取れないっすよ。」
男性看護師が文句を言った。
「そうでしたか…大変申し訳ありません。本人には伝えて置きますから。僕に出来ることがあったら言ってくださいね。」
小鳥遊は誰に対しても、それが、新人看護師であろうと、掃除のおばさんであろうととても丁寧だった。
「医局長はマメで奥さん羨ましいなぁ。きっとお家で家事の手伝いとかもしてるんでしょうね?」
「いえいえ…僕は殆ど家に居ないので、奥さんにおんぶに抱っこです。」
そう言ってはにかんで笑う小鳥遊を冬は静かに見ていたが、皆がピザ休憩を時間休憩している間、冬はそっと抜け出し看護計画を仕上げた。新人が戻って来る頃には、既に仕事が終了していた。
「月性さん。ほんとに済みませぇん。」
ぞろぞろと休憩室から出て来た看護師達が冬にお礼を言った。
後輩にダラダラ仕事をさせるのは好きじゃ無かったし,押し付けたままにするのも嫌だった。
「良いのよ…気にしないで。お互いにフォローできるところは、先輩後輩関係なく協力し合いましょうね。それに、自分が指導する立場になったら、同じように新人を手伝ってあげてね。」
静かに微笑み、まだ終わらないスタッフの仕事を何も言わずに黙々と手伝う冬を小鳥遊は、見つめていた。
結婚は、一度で充分。外で遊びはすれど、前妻と別れて以来,新たな結婚相手を探す…そんな気も小鳥遊には起こらなかった。
大人の関係を迫った返事は、
次の当直迄に返事を聞くことになって居る。
…断られてしまったら仕方が無い。
そう思いつつも、
気になる女性は必ず手に入れてきた
小鳥遊には、少しばかりの自信もあった。
時間を置いたのは、
冬の反応や、様子を見る為だ。
これで今後の動向がわかるというものだ。
はしゃいだり、ベタベタされるのは御免だ。
そんな場合には、冗談だったよ…と、はぐらかすか、その話題に触れなければ良い。
…遊ぶのには距離感が必要だ。
大抵の女性は、関係を迫れば自分の事を気にするというもの。
だが、冬は全く違った。
「医局長…小峠先生の患者さんですが…。」
小鳥遊がPCの前で、ぼーっとして居ると突然、冬に声を掛けられた。
いつも患者のことだ。
「あっじゃぁ日にち変えて検査を…。
あと、昼前に、この人の血液検査迅速でオーダー出しておきました。検査科に伝えて下さいね。」
冬は、もう結果届いてますと、小鳥遊に迅速血液検査結果の紙を渡した。
「肝機能かなり悪いでしたものね。
消化器内科受診は、他の検査してからにしますか?」
淡々と業務をこなす冬。
冬の態度は全くと言って良いほど普段と変わらなかった。
…もしかしたら、断られるかも知れない。
この僕が?
逆に小鳥遊自身の方が、冬を盗み見する事が多くなってしまった。
♬*.:*¸¸
小鳥遊の当直の日。
あの時の返事をする日。
あの告白があってから、勤務中に小鳥遊からの視線を感じる様になった。
冬の方はと言えば、
新人が、その監督役で先輩看護師であるプリセプター無しで、夜勤へと配置される時期が来たことで、目の回る忙しさだった。
…そっか…今日返事しなくっちゃいけなかったんだ。
冬は公私混同をしない自信はあったが、小鳥遊医局長に迷惑を掛けないか…それだけが心配だった。
冬がお先に~と帰ろうとすると、看護師の休憩室に居た医局長が、ちょっと当直室へ行ってくる~と出て行った。当直室は、更衣室と同じ方向にある。
…気まずい
小鳥遊は先にエレベーターに乗り込み、後から冬が続く。誰が乗り込んでくるか分からないので、話は出来なかった。
―チーン
地下に着いた。B1には看護師のロッカールームと当直室…霊安室やリネン室、MRIにCTなどがあった。小鳥遊がまず当直室へと入り、冬も周りの様子を見ながらその後に続いた。
「ほら…こんなにスムーズにいった。凄いですね。」
小鳥遊は無邪気な笑顔を冬に向けた。
短い沈黙が流れ,冬が話し出した。
「小鳥遊先生…私…先生のことがを尊敬してますし好きです…が…。」
冬が言い終わらないうちに、小鳥遊は唇を塞いだ。
唇に優しく触れるだけのキスから,唇全体を包み込むようなキス,そして舌を絡ませる濃厚な口づけへと変わっていく。
蕩ける様な甘いキスに,冬の体の芯が痺れるようだった。
一度離れた小鳥遊の唇は、再び確認をするように優しく冬のぽってりとした唇を包み、優しく吸った。
…キスが…上手。
今まで経験した事が無いほどの、蕩けそうなキス。
…続けられたら、到底抗えない。
「ちょ…ちょっと…待って…。」
冬は慌てて小鳥遊から離れ、真っ赤な顔のまま俯いた。
「後々関係が上手く行かなくなった時に、
お互いが、気まずくなるのは嫌で…。」
「月性さんは、そんなことで気まずくなるんですか?」
小鳥遊は、冬の言葉に被せ気味に答えた。その顔は、まるで少年のようで、冬の慌てふためくのを楽しんでいるようにも見えた。
「いいえ…普通に…対応できると思いますけれど…でも…。」
冬の心臓は今にも飛び出しそうだった。
「だったら…良いじゃないですか。僕も平気ですから。」
小鳥遊は、急に真面目な顔に戻った。
「遊びじゃないけど、遊び…僕の言って居る事分かるかな?」
…要するに定期的に会ってセックスをするような関係…ね。
「…はい。先生が仰りたい事は、良く分かりました。」
冬の顔が少し曇った。
「君を束縛しないし、僕もされたくない。“大人の関係”ですね。」
…都合の良い女ってことね。
冬は配属された当時から,密かに憧れていた小鳥遊に声を掛けて貰い、とても嬉しかった…と同時に少し寂しい気分だった。
だが、見え透いた嘘をつかれるよりも潔いと冬は感じた。
どちらにせよ,やはり小鳥遊は魅力的だった。仕事や周りとのかかわり方も、小鳥遊と自分は似ているように思っていた。
…仕事が一番、自分の時間2番、3番目が恋愛…ぐらいの感じなのかな?
冬自身、今迄そのように過ごしてきた。しつこい彼氏はすぐ捨てたし、逆に、冷めた女だと捨てられたこともあった。
「判りました。」
冬が答えた途端、また小鳥遊は唇を貪った。
唇を甘噛みし、長い舌は冬を探して口の中で動き回った。
…ん…ん…。
そして、不意に置かれたその手は、冬の胸の上で、ゆっくりと優しく動いた。
その芳しい刺激に久しぶりに下半身が熱くなった。冬の舌が小鳥遊の後を追いかけようした時だった。
「はい♪今日はここまで。」
小鳥遊は突然キスを辞め、この続きは、学会の時にしましょう…と笑った。濃厚なキスの余韻は冬の唇に長い間残った。
冬は、ぼーっとした頭でマンションへと帰り、ゆっくりと風呂に浸かった。
…甘くて蕩ける様なキスの感触。
まるで麻薬のように冬の心も体も数分で痺れさせた。敬慕が化学反応を起こした瞬間だった。そして久しぶりに、冬は自慰に耽った。勿論…小鳥遊を思い出しながら…。
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