彼方へ

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 山頂に立つタケルの目に映るのは、周囲に広がる絶景だった。  遥か彼方まで連なる山々、雲海に浮かぶ島々のような峰々、そして澄み切った青空。  こんな景色は、ここでしか見れないだろう。 「やった。ついに、やり遂げた!」  タケルは一人そう言った。  声は掠れ、唇は乾いていたが、その目は達成感に満ちていた。  何か大きなことを成し遂げたいと思っていた彼にとって、これほどの充実感を味わったのは初めてだった。  深呼吸をすると、冷たい空気が肺に染み渡る。  痛いくらいに澄んだ空気。  それは現実感を与え、同時に達成感をもたらす。  タケルはゆっくりとリュックを下ろし、記念写真を撮るためにスマートフォンを取り出した。  スマートフォンを持った手は重く感じた。  疲労からか、興奮からか。  おそらくその両方だろう。  タケルはスマホを構えながら、周囲の景色を収めていく。  そんなタケルの脳裏には、登山前の光景が走馬灯のように浮かんでいた。  狭いワンルームマンション。  大学に入ってから、引っ越してきた部屋だった。  そこでタケルは、黙々と一人でリュックに荷物を詰めていた。  壁には登山の写真や地図が所狭しと貼られている。  机の上には山の専門書が積み上げられ、パソコンの画面には登山ルートが表示されていた。  スマートフォンが鳴る。  画面には「母」の文字が表示されていた。  出るべきかな?  両親と疎遠になりつつあるタケルは少し躊躇した。  しかし、結局は電話に出た。 「もしもし、タケル? 元気にしてる?」  母親は心配そうにそう語る。 「ああ、元気だよ」 「あのね、お母さん、明日そっちに行こうと思うんだけど」 「ごめん、明日から山に登るんだ」  電話の向こうで、母親が驚いている様子が分かった。 「山? どういうこと?」 「そのままの意味さ。登山をする。これは必要なんだ。自分を見つめ直すために」  タケルは会話を終わらすために強めに言った。  母親は黙り込んでいる。  なんて返していいのか、よく分からない様子だ。  そのまま無言になった電話を、タケルは切った。  通話を切ったタケルは、深く息を吐いた。  両親との関係は、大学入学を機に一人暮らしを始めてから、疎遠になっていた。  両親には、自分の挑戦の意味を理解してもらえないだろうな、そう思った。  タケルは再び荷造りに集中した。  この挑戦は、自分自身を見つめ直すためのものだ。  誰かに認められるためではない。  自分の限界を知り、それを超えるために、どうしても山頂に立つ必要があった。  準備は入念に行った。  装備のチェック、ルートの確認、気象情報の把握。  全てを完璧にこなした。  しかし、最も重要な準備は精神面だった。  タケルは孤独な闘いに身を投じようとしていた。  それは、自らが選んだ挑戦なのだった。  登山口に立った時、タケルは高揚感に包まれていた。  そう、挑戦はこれから始まるのだ。  タケルは深呼吸をして、最初の一歩を踏み出す。  最初の数時間は、順調だった。  それも当然だ、整備された登山道を黙々と歩くだけなのだから。  そこでは、他の登山者とすれ違った。  みな同じ目的地を目指している同志だ。  登山において、情報の交換は水や食料と比べられるほどの重要さを持つ。  もしかしたら、同じ登山者の中には何度もこの山を登っている経験者がいるかもしれない。  そうなれば、その情報の価値は黄金よりも重い意味を持つ。  この登山道は正しいのか?  途中の道にある、目印や表示の意味とは?  ルートから外れて、迷ったりした場合にどのように進めばいいのか?  実際に山に登った人間でしか分からない情報というものがあるのだ。  先人の知恵というのは大きい。  しかし、タケルは敢えて会話を交わさなかった。  これは自分との闘いなのだ。  今回の登山は、極限まで自分を追い込むことにしていた。  やがて道は険しくなり始めた。  急な斜面、滑りやすい岩場。  タケルの呼吸は荒くなり、汗が噴き出す。  休憩を取りながらも、彼は前進し続けた。 「ここで諦めるわけにはいかない。頂上が待っている」  タケルは自分に言い聞かせた。  突然、雷鳴が轟いた。空が暗くなり、雨粒が落ち始める。  天候の急変だ。  タケルは慌てて雨具を身につけた。  視界が悪くなり、足元も滑りやすくなる。  それでも、彼は一歩一歩、慎重に登り続けた。  雨音の中、タケルは何かを聞いた気がした。  誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。  振り返るが、そこには誰もいない。 「気のせいか…疲れてるんだな」  タケルは首を振り、前を向いた。  しかし、その瞬間、彼の目の前に人が見えた気がした。  慌てて目を凝らすが、そこにあるのは岩と霧だけだった。 「高山病の初期症状か?」  タケルは額の汗を拭った。  そして、冷静に水分を補給し、深呼吸をした。  幻聴や幻覚に惑わされてはいけない。  俺の目標は登山の完遂だと、言い聞かせた。  しかし、この調子だと、一時的に休憩をしなければならないか。  タケルは雨脚が強まる中、周囲を見渡した。  日も傾き始めている。  それに高山病らしい症状もあるのだ。  このまま登り続けるのは危険だと判断した。 「ここで一晩野営するしかないな」  彼は少し開けた平らな場所を見つけ、そこに向かって向かう。  足を踏み外さないように、慎重に動く。  足元は雨で滑りやすく、一歩間違えれば転落の危険がある。  テントを設営する場所に到着すると、タケルは野営の行動を開始した。  まず、ザックから防水シートを取り出し、地面に広げた。  雨が降り続ける中、シートが風で飛ばされないよう、四隅に石を置いて固定する。  次に、コンパクトに畳まれていた一人用テントを取り出した。  ポールを組み立て、テントの骨格を作っていく。  雨で濡れた手で作業するのは難しかったが、何度も練習した成果か、それほど時間はかからなかった。  テントの本体を広げ、ポールに固定していく。  風が強くなってきたため、テントが飛ばされないよう、ペグを使って地面にしっかりと固定した。  雨が激しくなる中、タケルは素早く行動を続けた。  テントが立ち上がると、防水性の高いフライシートをかぶせ、しっかりと固定。  雨水がテント内に侵入しないよう、フライシートの裾を地面にぴったりとつけた。 「よし、これで大丈夫だ」  タケルは濡れたジャケットを脱ぎ、テントの中に入った。  狭いスペースだが、雨風を凌げる安全な空間ができた。  防水性の高い圧縮袋から乾いた着替えを取り出し、濡れた服を脱いで着替える。体が温まるのを感じた。  次に、小型のガスバーナーを取り出し、テント内で安全に使えるよう注意深くセッティングした。  携帯食糧と水を用意し、温かいスープを作る。  雨音の中、湯気の立つスープの香りが広がった。 「いただきます」  タケルは黙々とスープを啜った。  温かい食事が体に染み渡り、疲れが少し和らいだ。  食事を終えると、シュラフを広げ、就寝の準備を整えた。  雨は依然として強く降り続けている。  テントの外では風が唸りを上げていたが、中では気にならないくらいの音になっていた。  懐中電灯の明かりで、タケルは明日のルートを地図で確認する。  天候が回復することを願いつつ、彼は深い寝袋に潜り込んだ。 「明日は絶対に頂上に立つ」  そう心に誓いながら、タケルは目を閉じた。  雨音を聞いていると、いつの間にか彼の意識は徐々に遠のいていった。  夜明けとともに、タケルは目を覚ました。  雨は上がっているようだ。  テントの外からは鳥のさえずりが聞こえる。  タケルは素早く身支度を整え、テントを片付ける。  朝日が山々を照らし始める中、タケルは再び登山を開始した。  昨日の雨で岩肌は滑りやすくなっている。  慎重に一歩一歩を進んでいく。  時間が経つにつれ、空気が薄くなっていくことを感じる。  タケルは頻繁に休憩を取りながら、ゆっくりと高度を上げていった。 「ここまで来たんだ。絶対に諦めない」  タケルは自分に言い聞かせながら、前進し続けた。  急な岩場では四つん這いになりながら登り、狭い尾根では細心の注意を払って歩を進めた。  昼過ぎ、タケルの体力は限界に近づいていた。  しかし、ここで諦めるわけにはいかないと、タケルは思った。  一歩、また一歩と、彼は前に進み続けた。  そして突然、霧が晴れ始めた。  霧の向こうに何かが見えた。  あれは…山頂か?  最後の力を振り絞り、タケルは駆け上がった。  岩場を乗り越え、急な斜面を登りきる。そして、ついに…。 「やった…ついに、頂上に立った」  タケルは膝をつき、大地に手をつく。  冷たい岩の感触が、この瞬間の実在を証明していた。  彼は顔を上げ、周囲360度の絶景を目に焼きつける。  思わず感動の涙が頬を伝っていた。  タケルは立ち上がり、両手を広げた。  風が全身を包み込む。 「俺は、ここにいる!」  タケルの叫びは、大空に吸い込まれていった。  その瞬間、彼は自分が本当に「成長した」と感じた。  くだらない大学での日々。それが全てが遠い過去のように思えた。    山頂での感動が冷めやらぬまま、タケルは下山を開始した。  新たな自信が胸に宿り、足取りは軽やかだった。  空は晴れ渡り、先ほどまでの雨の痕跡さえ感じられない。 「不思議だな。」  タケルは呟いた。  激しい雨と霧に悩まされたはずなのに、周囲は驚くほど乾いている。  靴も、服も、まるで雨に濡れた形跡がない。 「高山では天候が急変するって聞いてたけど、ここまでとは。」  彼は首を傾げたが、すぐに思い直した。  大切なのは無事に頂上を極めたこと。  些細な疑問にこだわる必要はない。  下山道は、登りと比べてはるかに楽だった。  タケルは順調に高度を下げていく。 「ねぇ、そこの君」  突然、背後から声がした。  タケルは振り返った。そこには、白衣を着た中年の男性が立っていた。  男性の姿はくっきりとしていたが、どこか現実離れしていた。 「え? あの。どちらさまですか?」  タケルは困惑した。  こんな場所で、なぜ白衣姿の人間に出会うのか。  ありえない。  登山をする格好ではないのだ。  どうやって、ここまで来たんだ?  男性は優しく微笑んだ。  その表情は、どこかタケルの父親に似ていた。 「私は山岳医療の専門家だ。高山病の症状はないかい?」 「ああ、いいえ。大丈夫です」  タケルは答えた。  その声は掠れていた。  まるで久しぶりに声を出したかのような感じだ。 「でも、なぜここに…」  タケルは声を絞るように、白衣の男に疑問をぶつけた。 「山にはね、思わぬところに助けの手があるものさ」  男性はそう言うと、タケルの目の前で形を変え始めた。  輪郭がぼやけ、まるで霧の中に溶けていくようだった。  タケルは目を擦った。 「これは、完全な幻覚と幻聴だ。高山病が悪化しているのか?」  タケルは水分を補給し、再び歩き始めた。  水の味は少し変だった。  消毒液のような香りがする。休憩できる場所を探す。  周囲を見回す。  そして、進んでいく。  しかし、何かがおかしい。景色が少しずつ歪んでいく。  木々が不自然に揺れ、岩が呼吸しているように見える。  同じような場所をグルグルと回っている感じがする。  迷っている際の典型的な症状だ。 「落ち着かないと。」  タケルは深呼吸をした。  しかし、状況は改善しない。  むしろ、悪化していく。  頭の中で誰かが囁いているような気がしてきた。  その声には、どこか聞き覚えがあるが、思い出せない。  幻聴。  幻覚。  タケルは、その場に立ち尽くした。  すると突然、ガラガラと足元が崩れた。  落下する感覚。  落下を続けていたタケルの頭は、妙に冷静だった。  山の斜面が崩れたのか?  そう判断した。  しかし、一向に落下は終わらない。  周囲を見ると、その異常さが分かった。  タケルが落下しているのは、山の斜面からではなかった。  周囲は、真っ暗の空間だったのだ。  タケルは、真っ暗な空間をただひたすら落下していた。  未知の恐怖に叫び声を上げる。 「うわあああああっ!」  目を開けると、そこは病室だった。 「タケルさん、大丈夫ですか?」  看護師が心配そうに覗き込んでいる。  タケルは混乱した。 「ここは、どこだ!」 「病院です。」  タケルは慌てて起き上がろうとした。  しかし、体が思うように動かない。体が弱っているようだ。 「俺は、いつからここに?」 「もう半年近く入院していますよ」 「嘘だ。俺は今、山に…」  タケルは混乱したように言葉を絞り出した。  その瞬間、記憶が断片的に蘇ってきた。  そうだ、登っていた山で何かが起きたんだ。  でも、何が? 「ああ、そうか。山で転んだんだ。」  タケルは自分に言い聞かせるように呟いた。 「岩場で足を滑らせて…そうだ、きっと救助されたんだ。」  彼は自分の体を確認しようとしたが、動きが鈍い。  痛みはないが、体が重く感じる。 「俺は、どこを怪我したんですか?」  タケルは看護師に尋ねた。  看護師は困惑した表情を浮かべた。 「タケルさん、あなたは身体的な怪我をしていませんよ。」 「いや、でも俺は、あの山で足を踏み外して…」  タケルは首を振った。 「確かに転んだはずだ。でなければ、なんでここにいるんだ?」  彼の目は病室を見回し、点滴や医療機器を確認した。  それらは全て、彼が怪我をしたという仮説を裏付けているように思えた。 「きっと、頭を打ったんだ。だから記憶が曖昧なんだろう。」  タケルはそう解釈した。 「タケルさん、落ち着いてください。タケルさんの病状は…」  看護師は優しく宥めるようにタケルに言った。  その顔が、先ほどの山岳医療の専門家と重なって見えた。  タケルの視線が窓の外に向く。  そこには、小さな丘が見えた。  丘の形が、さっきまで登っていた山と重なって見える。 「登頂したんだ。」  タケルは呟いた。彼の目には依然として雄大な山々が広がっている。  遥か彼方まで連なる山々がタケルの小さな身体の周囲を覆い隠すように見えた。  広い場所、山頂に彼はいるのだ。  しかし、その風景が少しずつ溶け、病室の風景と混ざり合っていく。  看護師は何も言わず、ただ優しく微笑んだ。  その笑顔が、山で出会った男性の笑顔と重なる。  タケルは目を閉じた。  そのまま深呼吸をすると、新鮮な山の空気が肺に入っていた。人の住む空間ではありえない澄んだ空気。  それはタケルに現実感を与えた。  ゆっくりと目を開けると、澄み渡る青い空が広がっていた。  タケルは、どこかの沢にいた。  というのも、水の音が聞こえていたからだ。  横になっていたので、立ち上がって周囲をよく見た。  綺麗な水が流れている。その周囲には山特有の岩面が見えた。遠くには林が見える。間違いなく、山の中だ。  どうやらタケルは斜面から足を踏み外してしまったらしい。  自分の身体を見た。  痛みはなかった。  手足は動く。胴体や頭にも異常はない。  俺は運がいい。  タケルはそう思った。  しかし、どこか違和感があった。この状況が、どこか既視感を覚えさせる。  タケルは首を振り、その感覚を振り払おうとした。  彼は再び周囲を見回した。岩、木々、遠くに見える山々。  全てが鮮明で、リアルだ。  タケルは深呼吸をした。  澄んだ空気が肺に入った。
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