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 三年間、ただ見つめるだけの恋だった。好きで好きで好き過ぎて、正面から顔も見られないような、幼い、それでも純粋な恋だったと思う。 「ごめん、俺、知らない奴とは付き合えない」  桜舞う校庭で、胸に『祝卒業』と書かれた花かざりを付けた井波聡祐(いなみそうすけ)は、野島湊(のじまみなと)に淡々と言い放った。でもそれは、湊にとって想定内の言葉だ。 「だよね……ごめん、時間くれてありがとう。これですっきりしたから、大学でまた新しい恋ができるよ」  精一杯告白して、あっさりとふられた湊はそう言って笑顔を作る。これでいい、これで充分だ――そんな呪文を何度も胸の中で唱えながら、じゃあ行くな、と去って行く聡祐の背中を見えなくなるまで見送った。  淡く儚い恋が、ひとつ終わった。これはこのままキレイな初恋の思い出として胸の宝箱に大事にしまっておこう――湊はそう思って涙を一筋、頬に落とした。  しかし、思い出はそのまま桜色の記憶として残ってはくれないことを、湊はひと月後知ることになる。 「さて、片付けも大体終わったし……あれ、持って行くか」  今日から暮らす自分だけの1DKの城を見渡して、湊は息をついた。視線の先には二時間前まで小言をいいながら引越し作業をしてくれた母が置いていったお菓子がある。せめて隣だけでも挨拶しなさいと言っていたが、一人暮らしであろう隣人にいきなり食べ物なんて迷惑ではないだろうか。突っ返そうとすると母は、手ぶらで挨拶する訳にはいかないでしょう、と言って強引にそれを置いていった。自分で食べてもいいがそれにしてはちょっと多い。仕方ない、と湊は諦めて袋を手に取った。  湊が借りたアパートの部屋は、八戸だけの単身用の小さなもので、湊が住むのは二階の向かって左端だった。すぐ下は空き部屋なので実質ご近所さんといえるのは右隣の部屋だけだ。サンダルをひっかけて廊下に出ると、そのまま隣のインターホンを押す。ドア越しにくぐもった声で、はい、と聞こえたので湊は、隣に越してきた者です、と答えた。間もなくして鍵の開く音が聞こえ、ドアが押し開かれた。  その隙間から覗いた顔に、湊は思わず後退りをした。廊下の手すりに背中をぶつけたが、その痛みも感じないくらい驚いた。心臓がばくばくと音を立て、顔なんか上げられない。なんで、どうして――そんなことばかりが脳裏を巡っていく。驚いたまま動かない湊に怪訝そうな声が降って来た。 「お前……卒業式の日……」 「あ、あ、あの……! お、お、おれ、ストーカーとかじゃ全然なくて! てか、ホントここに井波くん住んでるとか知らなくて、てか言い訳みたいだけど、あの、あの……!」  廻らない頭を必死に動かして弁解する湊に、聡祐は、わかったから、と面倒そうに答えた。 「知ってたんなら、そんなアホみたいに驚かないだろ。信じるから、そんな泣きそうな顔しなくていい」 「そ、そっか……ありがと。あ、こ、これ、引越しの挨拶」  湊は手にしていた袋を差し出してちらりと聡祐の顔を覗き見た。相変わらず整った、男らしい顔立ちをしていた。髪は卒業後に切ったらしく短髪になっていたが、それもまた似合っていて、湊の心はあの日の儚い恋の思い出を早速塗り替えようとしている。湊はそんな自分にダメだ、と言い聞かせ、聡祐から視線を外した。 「お、梅木堂のどら焼きだ。ご丁寧にどうも」  中を見た聡祐の言葉に、湊は、ごめんね、と口を開いた。 「……隣がホモとか気持ち悪いかもしれないけど、おれ、ホント井波くんには何にもしないし、嫌ならなるべく顔合わせないようにするから……おやすみなさい!」  湊は精一杯の言葉を言うと、逃げるように自分の部屋に駆け込んだ。ドアを閉めて長い息を吐きながら土間に座り込む。 「やっぱりカッコイイよぉ……」  湊は小さく呟いて、聡祐との出会いを思い出していた。  聡祐と初めて会ったのは、高校に入学してから一週間ほど経った頃だった。次の移動教室は一度も行った事のない旧校舎の音楽室、と言われた日だ。  その日の湊は日直で、しかもその時に限って担任に仕事を言いつけられていた。仕方なく休み時間にそれをこなしてから教室へ帰ったのだが案の定教室は空。待っててくれてもいいのに、と友人たちを呪いながら、湊は旧校舎を目指した。けれど、寮もあるような広い敷地を持つ学校だったため、湊はあっさりと迷子になる。 「大丈夫? ここ通るの三回目だよな?」  美術室の開いた窓からそんな風に声を掛けてくれたのが聡祐だった。そして聡祐は、俺寮生だから大体わかるよ、と湊を目的の教室まで連れて行ってくれた。しかも着いた先で湊を、迷子かよ、と笑った友人に対し聡祐は、俺もたくさん迷ったから知ってるだけ、と優しく言ってくれたのだ。あの顔で、あの声で、そんなことを言われてしまったら恋に落ちないほうがおかしい。  それ以来湊は聡祐一筋でずっと見つめてきた。話す機会はなかったけれどそれでも湊には満足だったのだ。何か新しい表情を見るたびに、湊の心は震えていた。  そんな憧れの人が隣に住んでいるなんて、これ以上の幸運なんてない。今だって、スウェット姿もブランド服に見えてしまうくらい均整の取れた体、長い指に、鼻筋の通った顔――取り乱した自分を、わかったから、と一言で落ち着けてしまう中低音の背骨に響くような声……全部にときめいている。  思い出にしようとしていた恋は、また現在進行形で動き出そうとしている。忘れなきゃと思うのに、愛しさは増すばかりだ。 「だからダメなんだってば……」  湊は一人呟きながら自分の膝をぎゅっと抱え込んだ。
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