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 五十嵐(いがらし)が現場へ赴くと、そこにはすでに同僚の時田(ときた)がいた。 「五十嵐さん、お疲れ様です」  細身のグレーのスーツに身を包んだ彼は、五十嵐の姿を見つけると頭を下げた。ワックスで固められた頭髪は一本とて乱れることなく、時田の几帳面さを窺い知れる。対して五十嵐は伸びっぱなしの顎髭に手をやり、「どうだ」とだけ言って厨房を見渡した。 「被害者は湯木(ゆぎ)エイジ、二十七歳。このレストランで働くコックです。死因は腹部の刺し傷による失血死と推測。第一発見者はガイシャの後輩である荒井(あらい)ミナト。出勤時に倒れていたガイシャを見つけたそうです」 「凶器は」 「厨房の牛刀と見て間違いないかと」 「牛刀……って肉切るやつだよな」 「そうですね」と時田が首肯する。押収した凶器は刃渡り二十センチほどの牛刀。主に肉を切る包丁として用いられるが、それに限らず広く使用されている。洋包丁は柄で刃を挟み、鋲を打っているものが一般的だが、凶器の牛刀は和包丁のように柄に(ほう)という木材を用いているものであった。厨房には朴を用いた洋包丁が多く、手に馴染みやすいからという理由でシェフが好んで揃えていると第一発見者の荒井が語ったそうだ。 「柄が汚れてんな」 「ええ、指紋でも採れるといいんですが」  柄にはぐるりと黄色味を帯びた汚れが付着しており、一部には指を添えた部分ではないかと見られる跡があった。    現場検証ののち、二人は厨房に設置された防犯カメラの映像を確認することとした。厨房の奥にたった一つ設置されたカメラは被害者が倒れていた入口付近を正面に、普段の仕事の様子を淡々と映し出す。 「これが昨夜ですね」  湯木が死亡する前日、出勤していたのは湯木も含めて厨房のスタッフ五名のみ。レストラン自体は定休日であったが、翌日に行われる結婚式の仕込みのためにコックたちは休日返上で働いていた。全員を指揮するシェフ、下ごしらえや洗い物をする四人のコック。ときどきシェフが指導に入っている様子が窺える。  十九時を過ぎたところで仕事を終えたのか、五人はそれぞれに帰り支度を始めた。全員が白いコックコートから自前と思われる黒いスーツに着替えている。三十分も経たないうちに明かりも消され、誰もいない厨房が映し出された。 「湯木の死亡推定時刻は?」  モニターの薄暗い画面を見つめたまま、五十嵐が問うた。 「二十時半から深夜零時頃かと」  現時点で見られる傷口は腹部の刺し傷のみだ。多量の出血を伴う傷の場合、外傷を負ってから三十分で死亡率が五十パーセントを越える。二時間を経過すると多臓器不全を引き起こして死に至る可能性もある。 「じゃあもうそろそろか」  画面を見る五十嵐の視線が鋭くなり、時田は息を呑む。時田よりも二十年以上ベテランの五十嵐は普段は身辺にも同僚たちの言動にも無頓着でいつも眠たげな顔をしているが、捜査となるとまるで狩りをする肉食獣のように瞳をぎらつかせる。  防犯カメラの映像が二十時を過ぎ、薄暗かった映像に変化が現れた。入口のドアが開き、何者かが厨房へと入る。暗いうえに顔を隠すように歩き、カメラの死角へと入った。するとその数十秒後には視界がまったくの暗闇となり、そこから先、カメラにはなんの手がかりも残されていなかった。  時田が小さく息を吐く。 「レストランのスタッフに話を聞いてみます」  なにを考えているのか、五十嵐は腕組みをした状態で「ん」とだけ返した。  ♦︎♦︎♦︎  事情聴取の結果、容疑者として名前が挙げられたのはシェフの伏見(ふしみ)、被害者である湯木の先輩の上野(うえの)、同期の照内(てるうち)、後輩の荒井であった。いずれも湯木が亡くなった日に出勤していた四名だ。もちろん皆、アリバイを述べて犯行を否定した。しかし多数のスタッフの聴取もあって、四人はそれぞれに湯木といざこざを抱えていたことが浮き彫りになったのだ。  まずシェフの伏見。上司である彼と部下である湯木の間には、日頃から意見の相違による諍いが絶えなかったという。厨房を取り仕切る伏見の意見は絶対で、逆らえば怒号が飛ぶ。湯木はそんな伏見にたびたび反発していた。  次に先輩の上野。彼には五年付き合った恋人がいた。結婚を考え、どのようにプロポーズをしようかなどと親しいスタッフに相談していたようだが、そのうちに恋人と湯木との浮気が発覚し破局。恋人を奪われたことへの恨みを持っている可能性がある。  次に同期の照内。気の弱い彼はたびたび湯木に仕事を押しつけられ、残業していた。もちろんシェフの伏見が見ていないところでだ。湯木に言い返すこともできなかったようだが、そのぶん鬱憤は溜まっていただろう。  最後に後輩の荒井。彼は湯木に何度も金を貸していた。何ヶ月も返ってこないこともままあったが、お礼だと言って女性を紹介してもらったことや先輩と後輩という関係性から、金を貸すのを断ったり返済を催促することができなかったそうだ。 「湯木という人間はあまり素行がよろしくなかったようですね」 「だな。このなかにホシがいるとすりゃあ、動機は怨恨ってとこだろう」 「再度取り調べを行いますか」 「ん」  五十嵐は容疑者の資料を時田に手渡す。事情聴取は任せた、の意だ。 「五十嵐さんはどちらへ」 「鑑識に」  凶器と見て間違いない牛刀は厨房の誰もが触れるものだ。よって犯人以外の指紋がついている可能性は非常に高いが、柄に付着していた汚れは真新しかった。湯木を殺害するときに手の平の汚れを拭わずに柄を握ったのだとしたら、そこから犯人への手がかりが見つかるかもしれない。  五十嵐が鑑識科へ顔を出すと、待ってましたと言わんばかりに鑑識官の(きし)が走り寄る。小柄な彼女の動きは俊敏で、五十嵐は岸を見るたびに脳内にリスを思い浮かべた。 「お疲れ様です!」 「お疲れさん。指紋は?」 「凶器にはやはり複数人の指紋が残っていますね。ですが真新しい汚れの部分からは採取できませんでした」  簡潔かつ明瞭な返答。おそらく犯人は手袋でもしていたのだろう。わかりやすいのはありがたいが、あっという間に答えがわかってしまって出鼻を挫かれたような思いだ。ドキドキする間もない。 「そうか」  五十嵐が顎に手をやる。表情はほとんど変化していないが、おそらくその仕草は落胆と思案を表しているのだろう。岸はすかさず次の言葉を発した。 「ただ、気になることがあります」  五十嵐の視線が自分に向けられたことを確認し、岸が続ける。 「この汚れのつき方、特にこことここです」  押収した牛刀の柄の上部と下部に指を差す。指の跡と思われる部分だ。 「たいていの人はこういう持ち方にはならないんじゃないでしょうか」  ♦︎♦︎♦︎  鑑識課を後にした五十嵐は、時田を伴って再び防犯カメラの映像確認へと向かった。検挙に繋がる重大なヒントが残っている可能性がある。足早に歩く彼の瞳には、獲物を見定めるかのように光が灯った。
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