4人が本棚に入れています
本棚に追加
後
――小さな取調室に五十嵐、時田、そして容疑者の一人がいた。すでに何度も行われた質疑に嫌気がさしているのか、彼は眉間に皺を寄せ、腕組みをして座っている。五十嵐は愛想笑いのようにほんのわずかに口角を上げると話を始めた。
「ご足労おかけしてすみません」
「……いえ、今度はなんですか」
「指紋の照合が終わったんですよ」
「……はあ」
「しかし残念ながら犯人のものと思われる指紋は採取できませんでした」
丁寧な口調を用い、そしてやや大げさな身振り手振りを交えて、五十嵐はがっかりしてみせる。場合によっては相手を刺激するが、これは五十嵐の常套手段だ。感情が乱れたときほど、隙はできやすい。
「そうですか」
しかし反応は薄い。指紋について動揺は見られなかった。どちらかというと、新たな進展がないにも関わらず呼び出されたことへの苛立ちが強いのだろう。
「再三の質問で申し訳ありませんが、湯木さんを殺害したのは、あなたですか」
「だから何度も違うと言っているでしょう」
「……では質問を変えます。あなたの利き手を教えていただけますか?」
「……」
これまでめんどうそうにしつつも五十嵐に応対していた彼が口を噤んだ。返答はない。代わりに恨めしそうに五十嵐を睨みつける。
「あなたには黙秘権がありますから、答えたくないということであれば構いません。実はですね、気になることがあったんですよ」
五十嵐はそう言うと、彼の前に一枚の写真を出した。凶器とされている牛刀が証拠品として収められたものだ。もう何度も見せられたこの写真に、彼はうんざりとした表情をつくる。
「この包丁、柄の部分が汚れていますね」
「……ええ」
「こことここ、おそらく指の跡だと思うんです」
鑑識官の岸が見つけた証拠、それは指紋ではなく――。
「柄を左手で握ったようなんです」
右手ではこうはなりません、と五十嵐が続ける。
鑑識課を訪れた日、五十嵐は再び防犯カメラの映像確認へ向かった。映像に映る四人の中に包丁を左手で握るような人物……つまり左利きの人間はいないかと。
「防犯カメラには仕事をする皆さんの姿が映っていました。湯木さんが亡くなったあの日、厨房に誰がいたか覚えていますか?」
「……はい」
確実に右利きであるとわかったのは湯木の先輩である上野、同期である照内だった。返事を聞いてからたっぷり時間をとって、五十嵐は口を開いた。
「あなたは左利きではないですか、伏見シェフ」
質問、というよりはすでに確信を持ったような口調だった。名を呼ばれた彼――伏見はさほど表情を変えず「わたしが左利きという確証がどこにあるのです」と放った。
「わたしは右手で包丁を握ります。左利きということであれば、もっと疑わしい人物がいるんじゃないですか」
伏見の言うとおり、防犯カメラの映像で彼は右手で包丁を扱っていた。そして湯木の後輩で、第一発見者でもある荒井は左利きであることが映像からわかっていた。しかしそれでも五十嵐は、犯人は伏見であると考えたのだ。
「そうですね、確かにあなたは右手で包丁を使っていました。でも、左手を駆使することも多かったんですよ」
伏見の眉がぴくりと動く。
「調味料を持つときや菜箸を使用するとき、あなたはいつも左手を使っていました。伏見さん、ぼくは右利きなのでなんでも右手を使いますが、左利きの方は物事によって右手と左手を使い分けますよね」
例えばドアノブを握るのは右手、瓶の蓋を開けるのは左手など、道具や用途によって使う手を変えるのだ。
「……もし刃物を使うのが右手なら、右手で刺すのでは?」
冷たい眼差しが、五十嵐に向けられる。されど今獲物を狩っているのは、五十嵐だ。時には急所を狙うように、時にはじわりじわりと絡めとるように犯人を追い詰める。
「犯人は湯木さんの腹部に深く凶器を突き刺していました。例えばボールを投げたり、ラケットで打ったり、肩や腕に力が必要で、なおかつコントロールも求められるならば当然利き手を使いますよね。でも、力という点に重きを置くなら、器用に包丁を扱う必要はないんです。……伏見さんも、そうじゃないですか?」
「え?」
唐突に答えを求められ、伏見は間の抜けた声を出した。
「あなたが左利きであれば、普段は右手で包丁を使っていようと力を入れやすいのは左手のはずです。……伏見さん、もう一度伺いますが、あなたは左利きですか?」
「……ええ。確かに、わたしは左利きです。でも刑事さん、どうしてわたしを疑うんですか。ほかにも左利きのスタッフはいましたよね」
五十嵐の口元が、片端だけを吊り上げて笑う。もう、獲物は身動きが取れない状態だ。あと一回、五十嵐が牙を食い込ませれば完全に仕留めることができるだろう。
「そうですね、左利きの方はほかにもおられました。ですが伏見さん」
コツ、コツ、と五十嵐が机上の写真を人差し指で叩く。伏見の視線はそちらへと向かざるを得なかった。
「指紋を採取することはできませんでしたが、この汚れ、もちろんなんなのか調べさせていただきましたよ」
牛刀の朴柄をぐるりと覆うようについている黄色味がかった汚れ。
「とうもろこしでした。……翌日に行われる予定だった結婚式の仕込みに使ったんですよね?」
「そうですね。今の時期はとうもろこしの冷製ポタージュを出しているので」
伏見は顔を引きつらせ、「それがなにか?」と付け加えた。
「ホールのスタッフはスープに触れるわけがありませんよね。部門外です。であれば厨房のコックはどうでしょう。シェフ、どうですか? コックなら誰でも、スープに触りますか?」
「……」
「そんなこと、しませんよね。コックは全員、自分の持ち場があり、基本的にはそこを離れないはずです」
店の規模にもよるが、コックにはそれぞれ役職や担当がある。彼らのレストランにおいては、厨房を取り仕切るシェフ、シェフ不在時に代理を務めるスー・シェフ、ソースづくりを担当するソーシエ、前菜やスープを担当するアントルメティエ、デザートを担当するパティシエにわかれており、魚・肉料理はソーシエが兼任、パンづくりはパティシエが兼任している。
「あなたは仕事に対して少しの妥協も許さない方だと伺っています。料理のためなら残業も休日出勤も惜しまない。人の心を満たす料理をつくるには料理にすべてを捧げなければいけない。コース料理を提供するレストランにおいては一品一品の味、質に一定のクオリティーが求められ、それらがバラバラではいけない。厨房全体が一枚岩となることで、統一感とコース料理として提供する意義が生まれる。よって風紀を乱す者、ルールを破る者は許さない。これが伏見シェフの考え方だと。厨房のスタッフが全員スーツで出勤しているのも、オーナーではなくあなたの指示によるものだと聞きました。それだけ厨房において伏見さんの意見は絶対的なものなんですね」
「……それがなにか」
「まだ見習いである荒井さんがスープを触ったら、あなたは許せますか」
「それは……もちろん指導しますが、今は人が亡くなっているんです。そんなことを言っている場合ではないでしょう」
「普段のあなたを知る方たちはこう言っていたそうです。『そんなことをしたら殴られる』『厨房はまるで軍隊だ』『シェフには逆らえない』と。そう話す方々がわざわざあなたの怒りを買うようなことをするでしょうか」
「……するかもしれません。わたしに罪を被せるため、とか……」
「なるほど」
当たり障りのない五十嵐の相槌に、伏見は怪訝そうな表情をした。ここでこんな返答をされたことに対して、まるでおまえの言葉にはなんの意味もないと言われているかのように感じたからだ。
「刑事さん、なにか言いたげですね」
五十嵐は「そうですか?」とわざとらしい返事をすると、一転、声音を低くした。
「伏見さん、あなたが疑っているのは第一発見者の荒井さんですか」
「ええ……まあ……そうですね」
「……彼にはきちんとしたアリバイがあるんですよ」
第一発見者の荒井ミナト。勤務して一年半ほど。まだ見習いの彼は洗い物や食材の下ごしらえが主な仕事だ。「軍隊のよう」と揶揄される厨房で、伏見の厳しさにめげることなく先輩コックたちのサポートに回っている。殺害された湯木は先輩と後輩という立ち場につけこんで、彼から金を無心していた。自身より低月給である荒井から金を借りることに臆面もなく。そして貸したものが返ってくることはなく、代わりに遊べる女性を紹介された。そのなかには同じレストランに勤める上野の元恋人もおり、荒井はそのことを上野に知られるのをおそれていた。
湯木が殺害されたその晩、彼は上野の元恋人と共に過ごしていたのだ。湯木の死を通して自分と女性の関係が知れ渡るのではないかと一旦は口を噤んだが、自身に殺人の容疑をかけられていると知ると、彼女といたことを包み隠さず話した。女性もまた、荒井の無実を証明している。
五十嵐を睨めつけていた伏見の瞳が、左右に揺れた。
――「……こ、殺すつもりは……なかったんだ……」
♦︎♦︎♦︎
五十嵐の牙は見事に獲物を仕留めた――伏見の自供により、事件は幕を閉じたのだ。
湯木の殺害当日、伏見は彼の担当していたスープの味に不満を持っていた。自身の味付けと大差はない。提供するには充分な味だ。しかし完璧を求める伏見にはほんのわずかな差こそ許せなかった。また、湯木はほかのコックに比べてこのようなことが多いのだ。それも伏見には気に入らなかった。考えた末、皆が帰ったあとで湯木を呼び出し、指示したとおりに調理をしているのかを問い詰めることにした。場合によってはつくり直しもやむを得ないとさえ考えていた。
完璧主義の伏見と素行の悪い湯木が揉めるのはいつものこと。だが休日出勤のうえに残業までとなるとオーナーに苦言を呈される。実際にそういったことが何度もあり、慎むようにと警告を受けていた。そのため、伏見は防犯カメラの映像が見られなくなるよう、カメラを布で覆ったのだという。
湯木は不満そうにしつつも厨房へ戻った。ポタージュにまろやかさが足りない。食感が違う。手袋越しに触るだけでも粗さがわかる……。
口うるさい上司のいつもの指導。湯木の顔はさぞうんざりしていたのだろう。悪態をつく彼に伏見は次第に苛立ちを募らせ、語調が荒れる。やがて二人は口論となり、伏見はスープで汚れた手をそのままに手近にあった牛刀を握り締め、湯木を殺害した。
予約されていた結婚式はレストランの都合により取り止め。向こう一年の予約もキャンセルが相次いでいる状態だという。伏見は心血を注いでいた料理を食してもらう場をも、自らの手で殺したのだった。
「あくまで殺害は計画的なものではないと」
「そう主張していますね」
事件の推移を聞きに時田を訪れた岸は、拭いきれない疑問を抱えつつも犯人逮捕という一旦の解決を見せたことに喜んだ。
「時田さん、お忙しいところありがとうございました。検挙に繋がって良かったです」
そう言ってビニール袋を差し出した。食欲をそそる香ばしい匂いが漏れ出し、時田が「これは?」と岸に尋ねた。
「昨日、家の近くでお祭りがあったみたいで。余りをもらったので良かったら」
ふっくらとした黄色い実が、まるで日焼けをしたように茶色く、あるいは黒く色づいている。甘さと塩辛さを混同した香りを漂わせ、それはラップに包まれているにも関わらず人を惹きつけるのに充分な魅力を持っていた。
時田は思わず唾を飲んだ。
「五十嵐さん、焼きとうもろこしいただきましたよ」
「ん」
ありがとさん、と五十嵐は時田が掲げたビニール袋から焼きとうもろこしを一本取り出し、さっそくラップを剥がすと一口齧りつく。
「とうもろこしだって、殺人の証拠になるより夏の思い出になりたいよなあ」
五十嵐はぽつりとそう言うと人差し指で顎を掻き、もう一口、焼きとうもろこしを頬張った。
終
最初のコメントを投稿しよう!