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芹と恋
冴島と芹は殆ど会話せずにマンションまで辿り着いた。
エレベーターに乗り込んだとき、芹が口を開いた。
「…薫さんにバレてしまいましたね」
「そうですね…」
そもそも、この関係は会社の人間にバレたら終わりにする条件だった。
今更ながらに冴島への気持ちを自覚した芹は心臓が腫れたように痛い。目の鈍痛を必死に堪える。
これ以上、冴島を振り回したり困らせたりしたくない。
冴島は何も言わず、それっきり黙ってしまった。そうしているうちに、エレベーターは冴島の部屋の階に到着する。
冴島は半歩、外に出て動きを止める。
そして突然振り返ると芹の腕を引っ張った。
次の瞬間、芹は冴島の胸の中にいた。
背後でエレベーターの扉が閉まる。
「さ、冴島さん…」
「織間は、口が固いからきっと大丈夫です…。だから、もう少し…」
冴島は芹の耳元で絞り出すような小さな声を出した。芹は冴島の背中に手回してそれに応える。
冴島は苦しいほど強く芹を抱き締めた。
「…格好が悪いですね。僕から出した条件なのに…」
「嬉しいから許します」
芹は背伸びをして冴島の首にキスをした。
冴島は芹の顔を見ると困ったように眉をひそめる。
「何故泣いているんですか?」
芹の瞳からは数粒の雫が零れ落ちていた。それはライトに照らされて芹の頬をキラキラと輝かせていた。
「えっ、やだ…気が付きませんでした…」
冴島は親指でその煌めく道を拭き取った。
そして唇を合わせようと顔を寄せたが、芹はサッと避けて悪戯っぽく笑う。
「…こんなところで恥ずかしいです。冴島さんのお部屋でなら、してもよくってよ」
「気が回らなくって失礼、こちらへどうぞ」
いつもと同じ様子の芹に、冴島も今や日常と化した二人の関係に戻そうと普段の調子に戻す。
芹は初めて冴島の部屋へと足を踏み入れた。
質素と言うか、簡素と言うか…寂しい部屋だった。
必要最低限の家電や家具だけが置かれた部屋だ。冴島が以前言っていた通り間取りこそ芹の部屋とそう変わらないが、物がない分ガランと広い。
芹はそんな部屋の隅に置かれた黒い革のソファーに座る。
(この部屋…PCデスクとソファーとローテーブルしかない…)
「退屈な部屋で幻滅しましたか?」
ジャケットを脱ぎネクタイをゆるめた冴島がミネラルウォーターのペットボトルを芹に渡しながらそう尋ねる。
「驚きましたけど、冴島さんらしいと言えばらしいですね」
「退屈な男ですみませんね」
冴島は皮肉っぽく目を細めたので芹は愛想笑いで誤魔化す。
冴島は芹の隣に座ると膝に肘をついた姿勢になった。深く座っている芹からは表情が見えなくなる。
「…実のところ、今日会うまで茜さんに未練のような感情があると、そう思ってました」
冴島は語り出した。
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