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「ほれ、あれが本殿。翡翠様のおわすところじゃ。その横がお前の住処」
雑に積み上げられた石段の先に、件の社があった。
木々が避けるようにぽっかりと開けた場所は、思いの外、明るかった。
社の入り口には大きな杉がそびえている。
左右に分かれて立つその大木には、しめ縄がくくりつけられており、幹と幹を繋ぐように渡してあった。
本殿正面には、横にも縦にも広い御扉がある。
造りは古いが、正直、これほど大きく立派な社とは想像もしていなかった。
隣接して、茅葺き屋根の家があった。あの小さな古家が、かやの住まいになるのだろう。
「少し前まで、あすこには先の世話役のいちが住んどった。じゃから、さほど荒れてはおらんだろ」
かやは、「いち」の名に反応して、視線を上げた。
おいちはかやの前任の下女だ。
里ですれ違ったことはあるが、言葉を交わしたことはない。かやとは違い、おいちには家族があった。里の者たちとも良好な関係を築いているように見えた。
けれどその娘は、翡翠様の下女に選ばれた半年後、山中で死体となって発見された。
聞いた話だと、背中に、鋭いもので裂かれた痕があったという。
この噂が広まって、神の世話役である下女に名乗り出る者がいなくなった。白羽の矢が立ったのは、身寄りのないかやだった。
「まずは本殿の翡翠様に、ご挨拶申し上げるのがよかろう。わしはもう行く。また様子を見にくるからの、達者でな」
それだけ言って、文吉は行ってしまおうとする。
「あの。お、お待ちください。文吉殿はご同席されないので?」
「当たり前だ。本殿へはお前ひとりで行くのだ」
「翡翠様の下女として、私は今日から、いったい何をすれば……?」
「翡翠様ご本人からご指示があるじゃろう。それに従いさえすればよい」
いちいち答えてやるのも煩わしいとばかり、文吉は逃げるように去ってしまった。
かやは途方に暮れた。
本殿の奥の暗がりを見つめる。
ああ帰りたい。
でも帰ったところで、かやの居場所はない。
今日からこの御山が、私の故郷になるのだ。
この侘しい、神のお膝元がーー。
かやはしばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。
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