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「翡翠様の下女としてお仕えするのは、大変名誉なことなのじゃ。ゆめゆめ、逃げ出そうなどとは考えるでないぞ」
険しい山道を登りながら、男は振り返らずに繰り返した。
男は、里長の屋敷に仕える下男だった。
名を文吉という。
たいした身分でもないくせに、文吉はかやに対して偉そうに振る舞った。
何が名誉だというのだろう。
かやは下唇を噛み締めた。
本当に名誉な役ならば、私なんかが指名されるはずがないのに。
かやが翡翠様の下女として山へ登ぼることになったのは、かやが一番、里にとって、どうでもいい人間だったからだ。
いてもいなくてもいい。
いなくなっても、悲しむ人がいない。
里では田畑を耕し、収穫の手伝いをした。
他家の繕い物や、赤子の世話もしていた。
けれど、それだけだった。
早くに両親を亡くしていたかやには、神様のもとで一生働くことになっても、それを気にかけてくれる人がいなかった。
「翡翠様のお社は、ずいぶんと、高いところにあるのですね」
山間の里から、もうずいぶん歩いた。それでも、まだつかない。
翡翠様の存在は、幼い頃、存命だった母から寝物語に聞かされた。
人や獣とはまったく別の存在。
山を守る神様だという。
かつて、先先代の里長が道に迷ったとき、行く先を照らしたのが翡翠様であったらしい。
また、流行病で苦しむ民の家の屋根に降り立ち、その悪い気を払ってくれたのも翡翠様。
一方で、土砂崩れが起きて里の大半が埋もれてしまったときにも、翡翠様が姿を現したという。
このことから、翡翠様は人を助けることもあれば、禍いをもたらすこともある、と伝えられている。
どちらにしても、丁重に扱わなければならない御方だ。
そこで先先代の里長は、山の頂きに翡翠様を祀るための社を建てた。
そして里と翡翠様をつなぐ巫女として、里の女をひとり選び献上することとした。
その実態が、巫女というより、下働きの下女であるのは、里の者なら誰でも知っている。
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