山登り

1/1
前へ
/3ページ
次へ

山登り

 私の住んでいた長野県の、当時、北佐久郡では小学校5年生で蓼科山登山をするのが慣例だった。  私の学年は5年生の時に一人腕を骨折していたので、全員で登山がしたいというクラスの希望で6年生の時に蓼科山に登った。  八ヶ岳連峰の北の端にある2531mの山である。  山小屋から上は大きな岩が重なり、頂上も飛び越さないと渡れないような岩ばかりの山である。    中学校では2年生で硫黄岳に登山をした。やはり八ヶ岳連峰にあり、2760mの山である。  蓼科山は学校から近いこともあり、日帰り登山。  硫黄岳は山小屋にとまり、御来光を見るために朝、暗い中を出発して頂上に立つ。  朝日が昇ってくる上に雲海が広がり、雲海に登ってくる美しい日の出がみられた。  下り際の道には花畑も見えて、尾根沿いに見えた横岳や赤岳がとても綺麗だった。  一泊の登山は少し本格的であり、自分の水は自分で運ぶ。男子も女子も4Lの水を自分で持っての登山なので、結構きつかった覚えがある。  途中鎖場などもあり、こんなところを初心者の中学生が登っても良いものなのかと考えながら登ったのを覚えている。  私が住んでいた、現在の佐久市望月は自宅の標高が約800mあった。  標高が599mの高尾山よりも高い所に住んでいたのだ。    再婚した今の夫はなぜか登山にはまっていた時期があった。  私は膝も悪いので、高尾山くらいは付き合ったが、下りはリフトだった。  それなのに、再婚してから何故か蓼科山に登ってみたいというのだ。  ちょうど、私が自分の都合で望月の実家の店を手伝っていた頃だった。  50歳を過ぎた二人。私は小学校での登山の他、蓼科山には5回ほど登っているが、決して楽に登れる山ではない事は実感している。  小学校の身体の軽いとき、高校で体力が充実している時にしか登っていなかったのに、運動不足も甚だしい50歳過ぎの男女。夫はほぼ高い山は素人だ。  7合目まで車で行かれるので、そこから登るのだったら良いよ。ということで、登りに行った。  夫は山登りの服装の基本は学んでいたが、登り方の基本を知らず、登りの最初から休火山である蓼科山の道に転がっている石(ガラ)を踏んで登っていく。  ガラは踏むと後ろの人に迷惑だし、疲れるし、捻挫するし、踏まない様にとあれほどいったのに。ガラの意味が分かっていなかったようだ。  私は喘息もあるので、登りは本当にゆっくり登って行った。  山小屋に着くころには夫にも追い付いた、運の悪いことにガスってきた。  山小屋から上は3点支持でのぼらないと危ない岩場なので、よく注意をして、ガスって濡れてきた岩ですべらないように気を付けて上った。  山頂に着くと、8月とは思えないほどの風とガスでとても寒い。準備していった薄手のダウンを着て岩の間にはまり込んで風を避けながらおにぎりを食べた。  おにぎりを食べ終わると、諏訪湖側の山が少し晴れてきていたのでそちらに歩いてみる。  雲海が見えた。  夫は雲海を見るのが初めてだと言う事でそれは嬉しそうに興奮し、何度も何度も綺麗だね。すごいね。と繰り返していた。  私はこのんでは山に登らないが、今は亡き母は山女で、冬の奥穂高の縦走までしている人だ。  家の窓から冬の雪を被った蓼科山を見て、洗濯物を干し終わると、バイクで走って行って、夕方帰ってきたこともある。  冬の蓼科に一人でのぼって帰りはビニールの風呂敷で滑り降りてきたと笑って話していた。  山に登った人にしかわからない景色があるから、登るんだよ。と、何度も何度も話を、聞かされた。  夫は思った通り山小屋からの下のなだらかな道でも既に膝が痛くなり、車までたどりつくのも大変だったけれど、あの時登っておかなかったら、東京に帰ってきてしまってからでは、多分蓼科山にも上らなかっただろうと思えば、少し無理してでもあの時登っておいてよかったと思った。  そうでなければ夫は一生、自分の目で実際の雲海を見ることはできなかっただろうから。  
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加