3 闇の温度

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3 闇の温度

 ベルガの歌は、聴く者の呼吸を感情ごと奪う。  拍手をしていた客達はたちまち魅入られ、目を閉じ、生きたまま凍りつく。  客だけではない。酒場の滞った空気や臭気、壁や天井に嫌というほど染み込んだ虚栄、自慢、嘘、嘲り──すべてを等しく吸い上げる。  演奏が終わり、ベルガが深く頭を下げると客たちはやっと我に返る。胸の前で合わせたままの両手のぬくもりを感じ、一度死んで生まれ変わったような幸福感に満たされる。  その瞬間吐き出される息は、この世界のどんな空気よりも清らかに違いない。  だが、ベルガ自身はしかめっ面でステージを下りた。百人程度の客しかいないのが不満なのか、声ではなく顔ばかりに注目されてちっとも歌に集中されないのが嫌なのか、あるいは自分の技量の無さがふがいないのか──釈然としない。  なにか満たされないのだ。決定的にえぐられている。 「──どうしたのベルガ。せっかく巡り逢えた王子様が魔法で石ころにされちゃったみたいな顔して」 「はいはい、今日も脳内メルヘンが炸裂ねお姫様」  楽屋のソファーでふんぞりがえっていると、ニコニコ笑顔のエリーヤが膝枕をせがむように乗り上げてきた。ベルガは尻をスライドさせてせまりくる後頭部から逃れようとするも、不屈の甘えん坊に追い詰められて観念するしかなかった。 「ねぇねぇ今日は来てなかったね、銀のぼうや」 「あらそう。気付かなかったわ」 「10日間ぐらい連続で来てたのにどうしたんだろう。カゼかな?」  太腿で感じるエリーヤの頭はずっしりと重い。踊りと恋と王子様しか考えていない乙女の頭部とは思えない重量感だった。 「もしかしてベルガったら……ついにぼうやのことも!?」  エリーヤは人の頭を掴んでカブリと食いちぎるような仕草をしてみせる。 「バカ言わないで。水たまりに顔面突っ込んで勝手に死んでてほしいぐらいどうでもいい」 「えっやだ、珍しい!」 「は? 水たまり溺死が?」 「いつものベルガなら興味ない男に言い寄られたら『ラッキー!』って飛びついて、散々いじめてポイしちゃうでしょ? なのに、わざと興味ないふりするなんて……もしかして本当に運命の王子様ってこと!?」  夢見るお姫様はもう大興奮。キャーキャー騒ぎながら自らの肩をパシパシ叩いている――片腕なりの拍手の仕草らしい。 「んなわけないでしょ! どうでもいいからどうでもいいって言ってんの!」 「ベルガったら髪が赤くなってるぅ」 「赤いわ! 生まれてこのかたずーーっと赤いわ!」  ベルガが勢いよく立ち上がり、エリーヤはごろんと転がって床で頭をぶった。「いたぁーい!」と言いつつ、やっぱり笑っている。顔面を踏み潰してやろうかと思ったところで、激しい靴音が聞こえた。ひっきりなしに誰かが叫んでいる。  どうせまた泥酔した客同士のケンカだろう──よくある出来事だ。だが、どうも様子がおかしい。 「クイーンのコレクション部屋が荒らされてたって!」  楽屋へ飛び込んできた踊り子の一言に、ベルガとエリーヤは顔を見合わせた。  酒場の店主であるクイーンのコレクション部屋は、店の一番奥の扉の先にある。寝室も兼ねていて、店の人間でも出入りが許されているのはごく一部。  ベルガは一度だけ入ったことがある。  天蓋付きの大きな白いベッドと、四方の壁にびっしりと飾られたナイフが鈍い光をおびていた。数百、いや、数千の光が渦になり、魚の群れのようだった。  しかし今、飾られていたナイフたちはほとんどが壁から引き剥がされて床に転がっていた。中には真っ二つに折れたり、装飾が取れてしまったナイフが数十本ある。 「わたくしのナイフ……ああ、誰が、なんてことをっ……!!!」  ティーポットが服を着ているような宝満色白なクイーンは床に伏しておいおいと泣いている。粒の涙に溶けた厚化粧の香りがあまりにも強烈で、ベルガは思わず顔をしかめた。 「泥棒のしわざなの?」 「入り口には鍵がかかっている。入れるわけがない」 「そんなこと言っちゃって、あんたらいつも居眠りしてるじゃない?」 「うっかり鍵開けたまま寝たんでしょ?」 「と、とんでもないっ」  警備をまかされていた筋骨隆々のボーイたちは青い顔。ベルガとエリーヤにけしかけられて半ベソをかきそうだ。 「万が一寝てたとしてもこんなに荒らされたら普通は物音で気づきますよ」  正面こそキッチリカッチリしているが後ろ髪のセットは寝癖が残っているボーイ達だが、こんな失態は初めてなのだろう。 「楽屋にも金目のものはあるはずだけど、よりによってクイーンのコレクションを狙うなんて……度胸あるわね」  ただでさえ背が高い上にピンヒールをはいていたベルガは、部屋の前にむらがる踊り子たちよりも部屋をくまなく見ることができた。  無残にへし折られているナイフは、どれも精巧な銀細工がほどこされているナイフばかり。宝石があしらわれたいかにも高級そうな刃物は無傷。赤絨毯に転がっているだけ──。  偶然とは思えなかった。 ◆  ベルガめがけて吹きつける風はひどく冷えていた。  ステージ用の赤いドレスのまま店を飛び出したことを後悔していた。防寒の毛皮を羽織ってきたが、そんなものでは防ぎきれないほどこの街の風は冷たい。  手と手をすり合わせたとき、思い返さずにはいられなかった。昨夜の肌を。  ベルガが今まで抱いてきた男たちは等しく熱い肌をしていた。だが、その熱はまやかしの興奮や欲情にすぎない。表面的なもの。膨らみきった肉の裏側にあるのは淋しさや虚しさの空洞。ベルガは男達が必死に守り隠しているそれらを明るみへと引きずり出し、萎えさせるのが愉快でたまらなかった。  しかし、彼は──リーフの肉体は違った。内側に得体の知れないものが隙間無く詰まっている。そのくせ熱が無い。彼の内側に燃えるものがあると分かるのに、その根源に触れることができなかった。強靱な守りがある。  それなのに彼自身は丸腰で、儚く、か弱いという顔をしていた。  触れてはいけないものに触れてしまったのかもしれない──。  昨夜の記憶を頼りにたどり着いた街の外れ。廃墟だらけの一画。黒ずんだレンガの表面がいまにも崩れそうな家だった。看板もなにもない──いや、丸眼鏡のかたちをした木製オーナメントが風に揺られて戸にぶつかりカラカラと乾いた音を立てていた。  扉が開かれ、あらわれたのはオーナメントと同じ形の丸眼鏡。  鼻先からずり落ちそうなそれを押し上げたリーフは、はっと息を飲んだ。眠たげだった瞳が一変。信じられないと言いたげに輝いている。 「ベルガさん!」跳ね放題の襟足をなでつけ、かかとの潰れた靴をはきなおしている。ドタバタと身なりを整える様は、しっぽをふる犬さながら。 「昨夜のおケガは大丈夫ですか? まだ痛みますか?」 「おかげさまで……大した事ないわ」  真っ先に体の心配をされると思っていなかったベルガは少々面食らった。 「そんなことより、店で大変なことがあったの」 「どうしましたか?」  柔和な笑みは崩れない。 「しらばっくれないで。あんたがクイーンのコレクションを壊したんでしょう?」 「壊されたんですか? それは大変だ。……ああっ、立ち話なんてすみません。今夜は風が強い。冷えたでしょう。詳しい話は中で。いまお茶をいれましょう。僕はだいぶ貧乏ですけど、お茶だけは香りも味も最高なものを飲もうと決めているんです」  さぁ、と手のひらを差し出される――が、ベルガはすぐに一歩を踏み出せなかった。  自分の行く先がひどく暗く感じられたのだ。わずかでも月の光が届く今のほうがよほど視界がある。 「どうしましたか?」 「……」  リーフは目を細め、眼鏡を押し上げながらふっと笑った。 「……僕のつくったナイフなんてたいした価値はない。だから、壊れたってなんの問題もありませんよ」  ベルガは『壊されたのはリーフのナイフ』とは一言もいっていない。あえて伝えなかったのだ。彼は壊されたのが自分のナイフだと理解している。つまり──いや、あえて罠にはまったに違いなかった。  すべてを悟らせるために。 「どういうつもりなの、あんた」  リーフはただ背を向け、何も言わない。くたびれた白シャツが暗がりにぼんやりと浮かんでいる。  ピンと張った背筋。でも肩や手足にはなんの力も入っていない。冷たい風が吹き込むたび、天井から垂れ下がるロープが見えるようだった。本当の彼はとっくの昔にここで首を吊って死んでいるのではないか──いまベルガの前にいるのはただの亡霊なのではないか──。  そんな幻想を見てしまうぐらいに、リーフの首は長く、白く、美しかった。 「ベルガさんこそ、気は変わりましたか? わざわざ来てくださったということは、昨夜の願いを聞き入れる覚悟ができたんですよね?」
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