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2 リーフ
昨夜はどんな男をしとめただろう。夢うつつのまま思い返してみる──いや、そもそも誰かと寝た覚えがない。
身を起こそうとした時、脇腹が引き攣るように痛み、ハッとした。男達に襲われたこと。騎士に扮していた“銀のぼうや”に救われたこと。
だとしたら、ここは──。
湿り気のある空気に混ざって、焦げた金属の香りがした。
目覚めたての朝日にむかって、彼はナイフをかざしている。
銀色の刃を透かすように見つめる横顔が淡く光って見えた。彼を構築する一つ一つが青白いの粒子のよう。ふっと息を吹きかけたらちりぢりに消えてしまいそうで、ベルガは息を殺して見ていた。
酒場の姿とはまるで別人。昨夜の号泣鼻血っぷりは比べものにならないほど知的。神々しさすら感じる。彼の存在とその先にのびる銀色のナイフがまるごと一つの完成された作品のようだった。
「……きれいね」
漏れ出た自身の声にハッとする。
「あ、ごめんなさい」彼は振り向きざまにナイフを下ろした。身を翻した魚のような光がベルガの頬を打つ。
「起こしてしまいましたか……」
「いいの。なんだか体中痛くて熱くて、ゆっくり寝てられそうに無いから」
「医者に連れて行くべきでしたか?」
「まさか。大袈裟ね」
打僕の痛みなんて酒でも飲んでいれば紛れる。都合のいいことにサイドテーブルに酒瓶が置いてあった。クリスタルの結晶を模した洒落たデザインだ。さぞかし高価だろう。断りもなく手にし、口にする。
「……」
男はよほどお人好しらしい。目の前で自分の酒を勝手にあおられてもなにも言わなかった。むしろ喉の動きに魅入られているようにじっと息を殺して見守っている。生ぬるい、と思いつつも、喉が渇いていたせいで一気に飲み干してしまった。
「あ、あの……」
「なに」
「それ、花瓶です」
「はっ!?」
酒にしては味が薄いと思ったが、まさか──。
「昨日、ゴミ捨て場にあったやつなんです」
「ゴミですって!?」
「きれいだから花瓶にしようって思ってそこに」
「花は!? 花が無いじゃない!」
「すみません。この界隈はどうにも植物が育ちにくくて……ああ、でも、大丈夫です。見つかりました。花は、あ、あなた……」
「え?」
「な、なんでもないです」
しゅんとうなだれた彼は長細い首をぺしぺし叩き、改めて背筋を伸ばす。
「水は新鮮です。瓶もちゃんと洗ったし、毒ではないと思うんですけど……」
「あんたといると私は水難だらけね。涙に鼻水、水差し、花瓶。なにかの呪い?」
「涙については本物です。でもその後の水は……わざとかけました」
「なんですって!?」
「邪魔したかったから」
「はあ!?」
ベルガは剣を抜くように花瓶を振り上げたが、「待った」と手首を掴まれる。
「あの御曹司はニセモノです」
「は?」
怒りを押さえつける手のひらはひどく冷たかった。
「おそらく、金目当てで寄ってくる女をだます詐欺師かと」
「でも金薔薇のブローチが……」
「精巧に作られていますが純金ではありませんね。金色に塗られただけの粗悪品です。きっと木の葉のごとく踏み潰せるでしょう」
「本当に?」
「僕は銀細工師です。人の心を欺こうとする美は一目で分かります」
彼の背後に広がるクルミ色の作業机にはよく手入れされた道具が整頓されている。ハンマー、ペンチ、ピンセット、鉄の色をした小高いステージのような台、すり切れた板、ランプ、銀の欠片が詰まった小さなガラス皿たち――。
「なるほど。さすがクイーンのお気に入り」
ベルガの働く酒場を切り盛りしているマダム――通称クイーンは、銀のナイフのコレクションが趣味だ。この国のあらゆる職人の作品を買いあさっているのだが、一番のお気に入りの職人が“銀のぼうや”なのだ。将来的に国宝をつくる腕前になると評価し、ことあるごとに店に呼びつけては作品を買い求めている。
「たいしたことありませんよ」
逃げるように顔を伏せた彼はベルガのために水差しとグラスを用意した。グラスへそそがれるタプタプというリズムは心臓の鼓動に等しい。清らかな水は勢いあまり、グラスのフチからこぼれ落ちた。
「偽りだと分かっていながらもあえて欺かれる。そうしたい人だって世の中には存在しますから」
含みのある響き。ベルガはベットの縁で脚を組み、「なるほどね」とうなずく。
「だからあなたは私の歌にいつも欺かれて、ふぇふぇ泣いて鼻水垂らしてるってわけね」
「そ、そういうわけでは……。というか、ベルガさんの歌声はまぎれもなく美しいです。命が宿っている」
ベルガは黙ったまま、水滴のしたたり落ちるグラスを一気にあおった。腹の底に刺さるような冷たい水だった。
「僕はあなたの歌を聴くと、過去に置き去りにしてきた人のことを思い出します。だから、どうしようもなく涙が……」
「よくある話ね。どうせ恋人でしょ」
「いえ、弟です。たった一人の大切な家族なんです……」
この部屋には狭い寝具と銀細工の道具しかない。生活を共にする者がいないのは明らかだった。
「家族、か。嫌な響き」
「え?」
「なんでもないわ」
ベルガは不敵に微笑み、髪をかきあげた。気品のある甘い香りが波紋のようにがる。
「お礼が遅くなったわね。助けてくれてありがとう。……えーっと“銀のぼうや”」
「ちょ、その呼び方はやめてください! 二十歳超えて“ぼうや”なんて恥ずかしいです!」
「鼻水垂らしてよく言うわ。じゃあなんて呼べばいいの?」
ベルガが首をかしげると、彼は突然「ハァッ!」とイスから軽く腰を上げたかと思えば、「ムハァアアッ!」とまた喚いて胸に手を当てた。胸から鼻血を出さんばかりに悶えている。
「ベルガさんに名前を呼んでもらえるなんてッ! そんな、もったいないです!!」
「リアクションがいちいちうっさいわね、このクソ泣き鼻血男は!」
「あああッその呼び方でも全然イイッ、嬉しすぎるッ!」
「まったく」
シャツはほつれてヨレヨレ、吊りズボンは継ぎ接ぎのあと。いかにも謙虚そうな細い体つき。少年と青年の面影が入り交じる童顔。常に困っているような目や眉。顔立ちは悪くない。涙や両鼻から出る液体が金色だったら最高だったろうに。
「今度なにか奢らせてちょうだい。クソ泣き鼻血男が来なかったら今ごろ顔を傷つけられていたかもしれないんだから」
「とんでもない。たまたま通りかかっただけですし、ベルガさんが無事で何よりです」
「たまたま? 鎧を着てたのに?」
「あの鎧は、装飾をほどこしてほしいと騎士団長様からあずかったのです。鎧の依頼は初めてでどこから手をつけたらいいのか分からず……勝手に着てお散歩していました。あっ、団長様には絶対にナイショですよ」
「剣もずいぶんとお上手だったようだけど?」
「きっと立派な鎧がそう見せたのでしょう。あんな重くて物騒な武器、本当なら持ちたくもない。ただデタラメに振り回していただけです」
「ふぅん……」
「襲われているのがベルガさんだと分かった瞬間、無我夢中でした。なにをしたのかサッパリ思い出せません」
うまく言いくるめられた気分だ。それにしても、依頼品を勝手に着用するなんてなかなかの命知らず。意外に大胆な性格なのかもしれない。
それなら──。
「……あなた、そんなに私が好き?」
「はい。とても素晴らしい唯一無二の歌声だと思っています」
ベルガはもう一度髪をかきあげ、ベッドから身を乗り出した。軋んだ木の悲鳴じみた音が耳をくすぐる。
「声だけ?」
「え……」
腕を伸ばして幅の広い肩をさすり、耳元に唇を寄せた。吐息をふっと頬にかけると、彼はおびえるように身を強張らせ、喉を甲高く鳴らした。不慣れな男は嫌いじゃない。首筋に絡みつけば、品の良い爽やかな香りがした。穢したくなる。
思えば、いつも涙に阻まれて彼の瞳をまともに直視したことがなかった。頬を包んだ手で強制的にこちらを向かせる。
夜の極まりを流し入れたようなブルーだった。ベルガだけを見つめて切なげに細められた瞬間、オレンジ色の光が瞳のふちにそってきらめいた。
「ふぅん……。あなた、近くで見たらずいぶんとキレイな目をしてるのね」
朝焼けが始まる寸前の物言わぬ青色に似ている。嫌な青だ。まだなにも知らない。この世の醜さを早くこの目に映してやりたい。
いたずらに微笑みながら、彼をベッドに沈め、上から覆いかぶさった。スレンダーながら出るところは出すぎて肉感の強いベルガの体はずっしりと重い。
「私を愛した者はみんな不幸になるの。その覚悟はある?」
ああ、とか、うう、とか声なき声を上げて強張った頬を赤い爪先で削ぐようになぞった。
この国で火は不浄なものといわれている。火を連想させる赤色も同じだ。燃えるような髪を持ち、返り血を一身に浴びた人魚姫は、不浄の魔女。
ベルガに乾いた花を贈り、選ばれた男は死ぬ。金も欲望もキスで吸い尽くされ、自身も乾ききった死骸になってしまう――そして歌姫ベルガは男の魂を美しい歌へと昇華させる──。店に出入りしている者なら一度は耳にしたことがある噂だ。
「ぼ、僕は……」
ベルガの肩に手を置いた彼はひどく震えていた。
「できることなら、あなたの歌になりたい」
「なにそれ、つまらない詩」
頭の上で両手を押さえつけ、彼のシャツのボタンを外していく。むき出しの胸に唇を落としながら、自らも服を脱いでいく。
彼の肌はひどく冷たかった──あるいは、ベルガの手はあまりにも熱かった。二人の体温はまるで正反対。その熱を打ち消すようにさすってみても、いつまでも冷たい。彼はベルガに触れられる度、折檻を受けているみたいに体をビクつかせる。
「り、『リーフ』と申します」
「え?」
「ふだんは『グレイ』と名乗っているのですが、本当の名はリーフです」
「へぇ。どうして偽名を?」
「それは……言えません。でも、ベルガさんには本当の名で呼ばれたいのです……いけませんか?」
潤んでいく視線。ベルガの白くやわらかな肉体を上から下まで舐めるように眺めたリーフは「ああ」と恍惚の溜息をもらした。
「もしベルガさんが魔女だとしても、僕は決して枯れることなく果て続けてみせます」
「口先だけの男は嫌いよ」
「ならば、早く証明させてください。早く」
リーフは長い首を起こし、自らの意志でベルガの唇に迫っていく。互いの吐息が絡み合う距離で彼は静かに目を閉じた。銀色の長いまつ毛が、枯れ落ちた花のように揺れている。
「一瞬でもあなたに愛されるのなら、僕は一生分の幸せを失っても構わない」
こんなことは初めてだった。
青い瞳の端から涙が流れ落ちるのが見えた瞬間、ベルガは思わず奥歯を噛んだ。
「やっぱり、帰るわ」
単なる遊びで灯したロウソクが燃え上がりすぎるのは面白くない。吹き消したくなる。
「待ってください!」
自らの服を直して起き上がったベルガに、リーフは半裸のまますがりついた。
「頼みがあります!」
「ムリ。バカすぎて話になんない」
「どうか聞いて下さい! この世界であなたにしかできないことがあります。とてつもなく欲深いあなたに!」
「はあッ!? とてつも……ですって!?」
「もし聞き入れてもらえるのなら、僕のすべてをあなたに捧げます! あなたの欲望も願いも全て満たしてみせます!」
「しつこいわね!」
ヒールで蹴りつけて振り払うも、追いかけてきたリーフは服をもつれさせながら床を転がる。這いずってベルガの足を掴み、額を地面へ叩きつけるように叫んだ。
「殺してほしいのです。この国の王子たちを!」
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