9人が本棚に入れています
本棚に追加
4 運命の王子たち
リーフの淹れた紅茶はたしかに上等な品だった。胸をすくような柑橘系の香りがふたりを等しく包んでいた。互いの心にひそむ秘事なんてまるで存在しないかのように──。
「そんなに警戒しなくても、毒なんて入っていませんよ」
ベルガが琥珀色の水面を睨むように見つめていると、リーフは自分が手にしていたカップと交換してみせた。こびりついた汚れやシミが一つも存在しない白いカップ。暗がりにぼんやり浮きがあるまっさらな美しさが、あまりに異質だった。
「あなた何者? 一体なにをしようとしているの?」
「僕はただの職人です」
立ちのぼる湯気で曇りゆく眼鏡を押し上げ、笑っている。自虐的な口角。
「ですが、10年前までは一応、この国の王子でした」
「なんですって?」
「すぐに信じていただけるとは思っていません。でも、どうか聞いてください──」
フェイ国は一代君主制。世襲ではない。血のつながりは腐りゆくもの。60年に一度、定められた年に生まれた双子から次の国王が決められる。
「僕と弟のローナは60年に一度――運命の年に生まれた双子でした。母は口封じのために殺され、僕たちは王子として王宮で教育を受けました」
だが、将来的に国王になるのはどちらか一人と決まっている。血のつながりは新たな争いの種。15才になる年にふたつをひとつに──片割れをかならず殺さなければならない。
「僕は幼い頃から弟のために命を差し出す覚悟でいました。でも、ローナはどうしたって僕を殺せなかった。『こんな伝統はおかしい。変えなければならない』と譲らなかった。とても聡明で、心優しい子なのです」
ローナは提案した。満月の一晩だけ心臓を停める魔術を使い、リーフの死を偽装してみせると──。
次期国王の選出方法を知っているのはごく一部の王宮関係者のみ。当然、民には王子の顔も素性も伏せられている。王宮から抜け出すことができれば自由の身。誰も秘密を知る者はいない。
「計画は成功し、僕はこの街にひそんで職人になりました」
いつの日か、王座についたローナに世にも美しい装飾ナイフを献上してみせる――。たった一つの夢を秘め、10年間、ひたすら銀細工に打ち込んだ。
「しかし昨年、風の噂で耳にしたのです。ローナ王子が何者かに腹を刺され、死にかけたと。一命はとりとめたものの、刃に毒が塗られていたせいでいまも昏睡状態にあると――」
犯人として真っ先に疑われたのは、ローナの他に王宮で過ごしている二人の王子。運命の年の前後に生まれた双子も、国王候補の王子として育てられるというしきたりがある。
第一王子の身になにかあったときのための存在。生き残った双子の片割れ。
第二王子、カメリア。
第三王子、ネシス。
どちらかが──あるいは両方が──ローナを亡き者にしようとした。
しかし、カメリアとネシスは知らぬ存ぜぬ。挙げ句の果てには『ローナの兄が生き延びているのではないか』『その兄が弟を暗殺しようとしたに違いない』と言い出した。
「僕がローナを……殺す、なんて……心やさしいあの子を……。たとえ噂だとしても許せないのです」
「なるほど。だから犯人をつきとめたいってわけね」
「いえ、見つけるだけではダメです。……殺さなくては」
頭をもたげた頬には、不適な笑み。
「次の王にふさわしいのはローナです。この国にはローナさえ存在していればいいのです。スペアなど必要無い。二人を殺しておかなければ、ローナの身が危うい」
息継ぎと共に眼鏡を押し上げる指はひどく震えていた。真に迫るような瞳はベルガだけをとらえている。涙と鼻水を垂らしていたぼうやは見る影もない。
「あなたの協力がどうしても必要なのです」
「どうして私が?」
「あなたは今まで何人もの男を食い殺してきたのでしょう?」
「……証拠は?」
「調べたのです。干からびた男達の大半は夜の街のルールや秩序を乱したり、ステージから笑顔を奪い去る寄生虫ばかりでした」
踊り子にしつこくつきまとった挙げ句に顔を傷つけた若者、ボーイの給料を啜り上げ酒三昧だった父親、片腕のショーガールの手足を遊び半分にへし折ろうとし、挙げ句に殴りつけた男──。
「ベルガさんはあの店を密かに守っている。誰かを犠牲にしてでもローナを守りたいと思う僕と同じだ」
リーフは細い首をのばしてベルガの顔をのぞきこむ。心の内へ入り込む隙を探しているかのように、小首をかしげては溜息をつく。焦げた金属の匂いがした。
「ベルガさんがその気になるまで、僕はどんな罪でも犯します。あなたの大切なものに火をつけてしまうかもしれません。ステージを失くして露頭に迷った踊り子たちがどれほど悲惨な目に遭うか……クズな男を山ほど食べたベルガさんなら分かりますよね?」
「それだけ必死に脅してくるってことは、あんたにはそれ相応の覚悟があるのね」
「もちろん」
焼き入れしたばかりの刃を互いの首に押し当てている心地だった。皮膚が焼けただれ、ベルガはじっとりとした汗をかいている自分に気づいた。心臓の鼓動が早い。隙間風の吹き込む部屋は乾燥しているのか、喉が痛む。
「この計画に命の保障はありません。国王候補の暗殺ですから、万が一しくじったら間違いなく打ち首でしょう。……まぁ、抜かりのないベルガさんがヘマをするとは到底思えませんが」
彼は、ふっと鼻で笑った。ずり落ちた眼鏡を押し上げる指先は黒ずみ、ところどころに切り傷のような痕があった。
「約束します。これからあなたに降りかかる火の粉はすべて僕が被ると」
「信用できないわ」
「ならば、あなたをこの国一番の歌手にしてみせる。ファイネスに選ばれるよう次期国王に伝えます」
「頼んだだけで叶うものなの?」
「弟は僕と一心同体です。なにもかもが同じ。ベルガさんのこともきっと気に入るでしょう……おそらく……」
言葉尻を濁しながら彼は視線を空に逃し、首を振った。
水面から顔を上げたような溜め息。再びベルガだけを真摯に見つめる。
「ファイネスとは一流歌手の称号。それを輩出した店はさぞかし繁盛することでしょう。……ベルガさんだって、もっとたくさんの人に自分の歌を聞いてもらいたいはずだ。歌を愛しているのでしょう。愚かな男を引っ掛けたバカげた遊びなんかより、ずっと」
「私のことをすべて理解しているような口をきかないでくれる? うざいのよ」
「表情を見ていれば分かります。僕はいつもあなたのステージに魅せられてきました。うざくて結構。歌うときのあなたは幸せそうだ。脳裏にまとわりついて離れない不安、絶望、過去のしがらみ、それら全てから解放されている。今この瞬間をただ生きている」
演説めいたリーフの声は熱を帯びていく。
「僕も職人の端くれです。時間を忘れて己の表現に向き合うことは、この上ない幸せだと身に沁みて分かります。体全体が熱く高揚し、より素晴らしい作品が生み出せそうな期待に心が踊る。その幸せが一生保障されるなんて夢のようじゃありませんか」
「そこまで言うのなら、当然、お金も貰えるんでしょうね?」
「もちろん。あなたの要求額にこたえます。王子たちを無事に殺せたらの話ですが」
「ふん」
ベルガは赤い唇を噛むようにして黙った。
どんなことを言われようと心が揺らぐことがないよう、平静をつとめていた。
眉一つ動かさず澄ましていた。
だが、とっくに分かっていた。
勝敗はついている。
ベルガはすでに息ができなくなるほどの深い興奮を覚えていた。互いの首を絞めながらキスを交わしているよう。恐怖と快楽がもつれ、粘膜に絡み合い、理性がとろけていく。
このリーフという男は相当狂っている。
どこまでも純粋にベルガを求め、共に堕ちていこうと誘う。
なかなか面白かった。こんなふうに求められるのも案外悪くはない。
「仕方ないわね」
口をつけていなかった紅茶をぐっと飲み干した。
すっかり冷めたそれは焦げたような苦味がありながらも、舌の上にほのかな甘みを残して消えていく。
喉の渇きが一気に潤ったことも相まって「はあっ」と艷やかな吐息を漏らしてしまった。
「感謝します。ありがとうございます。さすがベルガさんだ」
リーフは背筋から力を抜いたように微笑み、頭を下げた。
「上っ面のお礼なんていいから、クイーンのナイフをちゃんと修理しなさいよ。できるんでしょう?」
「善処します」
「それから、どんな目的があったとしても自分の作品を壊すのは金輪際やめてちょうだい。あんたの銀細工、まぁまぁ素敵よ。壊すなんてもったいない」
「えっ……素敵、ですか……あ、あっ……ハイッ!」
作品を褒められるとは予想していなかったのだろう。リーフは何度かまばたきしたあと、やっとベルガのことばを理解したようだ。ぽっと頬を赤らめ、目を右に左に泳がせてはにかむ。
さっきまでの影のある狂気はどこへやら、あたまの後ろをガリガリかいて「まいったな」とニヤニヤデレデレ。
「クイーンさんのコレクションになるのも良いのですが……、いつかベルガさんのために美しい銀ナイフをつくってみたいです。ベルガさんの美貌に見劣らないナイフを」
「ありがとう。とんでもなく高く売れる豪華なやつを作ってちょうだいな」
「い、いや、想いをこめた作品は売らないでいただけると職人冥利につきるんですけど」
「そう? 良い作品なら大切にしてくれる人のもとにいくのが一番でしょ? 私なんかじゃ銀のナイフなんて持っていても雲らせるだけよ」
「……ううっ、守銭奴じゃなければパーフェクトなのに、もったいない人だ……でもでも面倒臭いところもたまらなく……」
「なんか言った?」
「い、いえ、なんでも……!」
「嘘をつくとき眼鏡上げるの忘れるわよね、あんたって!」
ベルガが勝ち誇ったように微笑むと、リーフはハッと息をのんだ。鼻先までずり落ちたままの眼鏡をぐいっと押し上げる。
「やっぱり敵わないな……ベルガさんには……」
ベルガはやっと自分が主導権を握れたことにホッと安堵した。
あまりにも一気に緊張がほぐれたせいなのか、目の前がだんだんと遠くなっていく。見えているはずの世界がぼやけ、目をこらしてもピントが合わず、ぐるぐると回るようで──やられた、と舌を打ったときにはすでに手遅れだった。
最初のコメントを投稿しよう!