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峠のニ(とうげのに)
「そりゃ、おまいさん、狐の化かしに会ったのさ」
「狐の化かしだって? そんなもの迷信だと思っていましたよ」
ただ、女はこういうのがよくある話だということも知っていた。狐に化かされたように、同じところをぐるぐると何回も行き来させられる。道に迷わされるということがあると知っていたが、それでも怖かった。女は初めて山道で迷子になった。迷子になるだけならまだいいと考えたが、そこにいる人間がするりと別人に入れ替わっているのだから、余計に怖さを覚えた。
「翻してみんさい」とお婆さんは女へ言った。
「何をです」
「おまいさんの考え方じゃよ」
「どういう考えを?」
「そうじゃなぁ、おまいさんはあたしを見たとき、婆さんだと考えただろう?」
「ええ考えましたし、実際にそうでしょう」
「うむ、そうだけんど、そういうんじゃ無いかもしれんよ」
「どういうことですか?」
女は考えたが、分からなかった。お婆さんは湯呑みに入れた茶を女の前へ差し出して、話続ける。
「じゃけん、そういう考えじゃ。もしかすると、あたしは婆さんじゃないかもしれんね」
「そういう事があるもんですかね」
「あるね」
「そうですか」
「まぁええじゃないか、今日ももう遅い。この山はな、気まぐれなんじゃ。泊まっていきんさい、明日に帰りんさい」
明くる朝。お婆さんに別れを言い、女は出発した。今日こそ帰って、おっ母に薬を飲ましてやるんだ。そう意気込んで出立した。
女は今日も歩きに歩いた。
峠を一つ、山を一つ、水を飲んで。
峠を二つ、山を二つ、おだんご食べて。
峠を三つ、山を……、と三つ目の山を下る途中、辺りの違和感に気付いた。
「ああ、またこんなことがあるなんてね。狐さん化かすなら、おっ母に薬を届けてからにしてくんなまし」
女の声は、山鳴りに書き消された。蟬の鳴き声はいつの間にか聴こえなくなった。聞き耳立てても聴こえてこない。女の視線の先には、さっきの茶屋の暖簾がある。
「狐さん、狐さん、どうか私をここから逃してくんなまし。そうでなけりゃぁ、私のおっ母さんが病気をもっとこじらせてしまうかもしれないんだよ」
今度は蝉時雨が一斉に鳴った。女はその鳴き声で溌剌の気分を覚えて、足取り軽く翻って山道を登った。そして、峠を越えてまた下た。すると今度は見覚えのある、道に出てくることが出来た。トンボと稲穂が女の目には、明るい朝日の兆しに見えた。
「ああ、ああ、一安心だ。良かった良かった」
田んぼ道を軽やかに跳ねるように歩くと、女はようやく家を見つけた。
「私のお家。おっ母さん! 帰ったよ」
家の引き戸に手を掛ける女。しかし、何か変だとその女は考えた。考えたが、まずは家の中を確認するのが先決だと思って、勢いよく開けた。
「お、おっ母……」
女の目にした光景は、八畳に土間、そして奥には居間がある。
「違う違う、ここんは私の家なんだ、そのはずなんだ……」
「へい! いらっしゃ、ん? おめぇは一昨日の。どうしたんだい帰って、そんで、また来たのかい」
奥から出てきた、初老の男。確かに一昨日会ったその茶屋の店主だった。
「もうもう、わけ分からん! 分からんよ! あたしは!」
女は気が動転し、癇癪を起こしそうになった。同じ山、同じ山道、同じ場所に茶屋があるのならまだ分かる。その山の茶屋に行ったのなら、本当は分からないけどまだ分かる。狐につままれたと思えばいいからだ。でも、ここは私の家だ、誰がなんと言おうと私の家だと、女は心の底で何度も強く言った。
「ええい、お、落ち着け落ち着け! おめえさん! おらのこと分かるだろうに?! まずは、落ち着いてくれ! 話しはそんからだ」
「分からないのです! ここはあたしの家です!」
ともあれ、初老の男の茶屋の旦那はどうにかこうにか、女をなだめて落ち着かして、茶も出した。外は夕刻の時分だろうか、元気旺盛に鈴虫が鳴き始めていた。
なんとかして女を落ち着かせたあと、旦那は全部の事情を聞いた。
「なるほどねぇ、おめえの家だってか、ここが」
「ええ」
「それより、だいぶ落ち着いたな。外へ行ってみんさい」
女は旦那に言われるまま、外へ出てみた。そうすると山道と、あの茶屋の暖簾と提灯を確認出来た。それがどれだけ女の心を安心させたか、半分は自分の家へ帰った筈なのに、なぜこの時分にここへ戻って来てしまったのかと思ったが、自分の家が茶屋に刷り変わった訳じゃないと分かったから安堵した。
「なぁ、おらの茶屋だろ? おめえは悪い夢でも見てたのさ。おらの店がおめえの家なわけねぇだろうに」
「でも、この店はお婆さんの店でもあったのですよ。それはどういうことですかね」
「うーん、それかぁ。そりゃやっぱり狐の化かしに会ったんじゃねえんかい? それしか考えれねぇよ」
「私はもう、三日近くお家に帰ってません。おっ母さんが心配で、おっ母さんも私を心配してます」
「そうだな。いや、きっとな明日はきっと帰れるってな、そういう希望を持っていかないといけんよ」
「でも、帰れないこともきっとあるでしょうに」
「だけんど、そう考えると希望も元気も出ないだろう。ならよ、希望があったほうが良いだろうに」
「そういうもんですか」
「おう、そういうもんだ」
女は今日もへとへとだった。なんとかおにぎりを頬張り、八畳の畳に身を任して深い眠りに就いた。
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