峠の三(とうげのさん)

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峠の三(とうげのさん)

 女はくたくたのへとへとだった。結局のところ次の朝も、その次の朝もこの茶屋で過ごした。おっ母は心配だけど、また道に迷って狐の化かしに会って、堂々巡りするよりはましだと考えたからだ。 「いつまでも、ここに()っちゃいかんよ。おめえは今日こそ帰りな」 「旦那には感謝してます。でもね、私は怖いんです。また現実が怖いんです」 「そりゃぁ怖いさ、現実なんてのはな。おらも同じだよ、この茶屋は本当におめえが言うに、そのお婆さんの茶屋かもしんねぇし。本当はこの茶屋は……、いいや、おらの茶屋なんてもんは始めっから無かったのかもしんねぇ」 「え? でも、ここにちゃんとあるんじゃありませんか」 「ああ、そだな。でもなぁ、おら考えるんだよ、お茶を淹れてお客へ出すときも、この暖簾を毎日畳む時もな、もしかしたら、明日は出せねぇかもしんねぇてな」 「そういうもんですか」 「ああ、そういうもんでな。でもな、そのたんびに、いちいち明日とか、一月(ひとつき)あとのこととか、一年あとのこととかまで考えてたらキリがねぇだろ」 「ええ、そうですが」 「だからよ、色々疑ってよ、(ひるがえ)してよ。今の現実から目を離しちゃ行けねぇと思って店をやってるんだよ、おらはな」  女はその旦那の言葉を噛み締めて、自身の中へ飲み込んでいた。 「まぁ、なるようになる。それによ、狐の化かしに会うなんてめったにねえことだし、それはおったまげたことで、いきがあって良いじゃねえか。いいや、たとえ原因が狐だろうがあやかしだろうがな、おめえは現実を見てちゃんと帰んなきゃなんねえんだよ。そもそもよ、おめえの神経が衰弱してただけかもしんねえぞ」 「そうかもしれないですけど、私は確かに見たんです。私のお家は、もしかしたらもう化けぎつねにあやかされてるかもしれない」 「そら、ほれ! それだそれだ。おめえはいつも悪い向きに事を考える癖があんだよな」 「私もそれはわかってます。でもね、良い考えはつかないんですよ、いつもね。私はいつも、現実を見れないのですよ」 「江戸やら帝都やらという都会に出てみろい。おめえの考えさ、馬鹿馬鹿しくなるぜ。あそこに生活している奴らなんか、自分勝手でな、それこそよ飛んでもねぇ奴らが多いって話だぜ」  女はその旦那の言葉をまた噛んで飲み込んだ。 「ありがとう。少しは楽になった気がします」 「そうか、んじゃあ良かったな」 「今更ながら、旦那さんのお名前を」 「ああ、そうだな。おらは市ノ渡(いちのわたり)善兵衛(ぜんべえ)ってんだよ。娘からはな善ちゃん善ちゃんと。おっ父と呼べと言ってんだけどな、あいつは(よわい)(ここの)つになるから直んねえだろうな」 「へぇ、さぞやめんこくて、目に入れても痛くない嬢ちゃんでしょうね」 「へへぇ、まぁな」  善兵衛は鼻を指でこすって照れ隠しした。 「だからおめえもよ、所帯持って、てのはちげえか。まぁ嫁に行くのか、婿を貰うのかは知らねえが、現実を見て希望を持って生きて行きゃいいってことだよ」  女は意を決した。もういつまでもここに居るわけには行けないと考えた。 「なんと御礼を申し上げたら良いやら。恩に着ます、ありがとうございます」 「ええよ、まぁもうおめえは大丈夫だな。きっと山道(やまみち)で迷うこともねえよ、達者で暮らせよ」  女は外へ出て改めて善兵衛へ礼を言った。深々と頭を下げて、そして山道を登って行った。  女は今日も歩きに歩いた。  峠を一つ、山を一つ、水を飲んで。  峠を二つ、山を二つ、いちじく食べて。  峠を三つ、山を……、と三つ目の山を下ると、見覚えのある田んぼ道に出た。そして気がつくと自分の家の前にただ一人で立っていた。 「お、おっ(かあ)さん! 只今戻ってきたよ! 薬を持って戻ったよ!」  女は今度は間違いなく私のお家だということが分かると心から安堵した。痩せ細ったか弱いおっ母は、居間の布団に足だけ潜らせて座っている。いつものおっ母だと思った。 「お帰り、遅かったじゃないか? おめえはおっ母にどんだけ心配さしたよう」 「ごめんよ山道で迷ってさ、どうやら狐かあやかしに惑わされたみたいで……。いやいや、あたしは現実が見えてなかったみたいなんだよ」  女のおっ母は黙って、娘に優しく頬擦りしてみせた。それ以外にも娘から全部の話を聞いて、また口を開いた。 「そんじゃあ、そのお茶屋さんにはずいぶん世話になったんだねえ」 「そうなんだよおっ母。その茶屋のことなんか知らないかい」 「うんと、知らないも何も。そうか、おめえはあの村の方面さ行くの初めてだったもんな。あの茶屋はな、昔はおっ母のおっ母、つまりな、おめえのお婆さんが切り盛りしてたんだよ」 「ええ? あたしのお婆さんがかい?」 「そうさ、もうおめえが生まれる前の話だよ」 「へえ」  もしかするとなと、女はそう考えた。じゃあ、あの善兵衛(ぜんべえ)さんも、もしかするとな、と。  おっ母に薬を飲ませながら女はこう考えた。  情に流されれば、身を助け。親切を受け入れれば心が満ちる。  とかく、この世は(たの)しすぎる。  女は今や、現実的なことを考えるようになっていた。  女はその翌年(よくとし)に隣の隣の隣の山の、つまりは三つ目の峠の下から半里先の村にある薬屋の旦那と婚姻した。その一月(ひとつき)後に、おっ母が病気で亡くなった。 「ありがとう、おっ母、お婆さん、善兵衛(ぜんべえ)さん。あたしはあたしの現実を背負って、生きていきますよ」  『山道にはご注意を、迷わぬようにご注意を。狐やあやかしにご注意を』  そのような立て札が三つの山に立てられたのは、幸子(さちこ)が子を授かってから間もなくのことだという。
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