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峠の一(とうげのいち)
ようやく峠を越えようという時、女はこう考えた。
情に流されれば、身を滅ぼす。恨みに苛まれれば心が朽ちる。
とかく、この世は窮屈すぎる。
女は今、作家や詩人染みたことを考えるようになっていた。
この峠を越え、山を下って行けば隣の村にたどり着く。そうすれば薬を手に入れ帰ることが出来る。その希望を胸に、女はただ山を下って行く。
相変わらず汗は止まらないが、それでも何とか足を動かしていた。
途中、茶屋を目にした時に休憩しようかと考えた。もう、六時間以上は歩きっぱなしだった。疲れきった体に鞭を打ち、暖簾をくぐり中を見渡した。
「はて? ここは茶屋ではないのかい」
屋内に返事は無く、ただ蟬の鳴き声とトンボの赤色の気配だけを外に感じた。
「返事がないから、私は勝手に座って待っていますよ」
「へえい、いらっしゃい」
女が腰を掛けようとした時、店奥の居間の方から男の声が聴こえてきた。
「よいしょと。あらぁ、お待たせしたかね、気づかんかったよ」
居間から降りてきた男をよくよく見てみると、それは痩せた初老の男だった。
「いいえ、待っていませんわ。ただ、ちょっと休憩させてもらいます」
「そいつは良かった。ちょうど、おらは今店に出ようと思ってね。お前さんはこれから下るのかい?」
女は男の容貌を見て思った。紺の甚平を着て、厚下駄をはいて履いているこの男は、きっと退屈で仕方ないに違いない。窮屈とまでは行かないけど、この店は畳が八畳分の広さしかないし、店の土間部分も席を置いてるのは四席分だけだ。狭い店に入れる客は少ない。客も一日に一人二人ぐらいの登山客と、地元のわずかな者だけだというのが容易に想像できた。こんな田舎の山に訪れる人の数はたかがしれている。女自身も自分の住んでる村から、次の村へ行くのに山を三つは越えないと行けない。そして、今この三つ目の山を下って行けば間もなく隣の村だ。人づてに聞いた評判の薬屋で薬を買って、早く帰っておっ母に飲ませなくてはいけないのだ。
「ええ、下ってすぐそこの村へ行って、薬屋で薬を買って帰るのよ」
「そうかい、良吉の薬は効くぜぇ、一口飲めばどんな病気も治っちまうってもんだ」
「薬屋の店主は、良吉さんって言うのかい?」
「おおう、おらも良吉の薬には世話なってんだ」
「へえ、良吉さんはそんなに良い薬を作って売ってるのかい」
「そうだそうだ、もう行った方が良い。そんで直ぐ戻って来て、今日はウチに泊まりな。空部屋もあるし、この畳のとこで寝ても良いぜ。ここら辺はな、夜は狐も出るし狼も出る。とにかく、急いで行ってきんさい。暗くなる前に早く戻りんさい」
「ありがとう、そんじゃあ私は行ってきます」「そうだ、行けったら行け、早う戻り」
茶屋の主人は女をもてなす暇も無しにして、早く行くように促した。それはつまり、この土地に住んでる者として忠告してるように思えたが、女にとって一番不安なのは、今夜中に家へ戻れないことだった。夜道に灯を点けてでも、なんとしてでも帰りたかった。でも、女にはそんな獣道を行く余裕も度胸も無く、ただ、言うとおりにここへ一度戻って明日朝に帰るしか他にないと考えた。
女は山を下り、もう半里ばかり歩いた。ようやく村に着いて、薬屋で店主の良吉に会い、おっ母の薬を売ってもらった。良吉は優しい若男で、名前のとおりの良い人だった。茶屋の店主に良吉のことを聞いたと伝えると、「茶屋の旦那に宜しく。まぁ道中気い付けて行けや」と言って、そのまま薬草取りに出掛けて行った。
「たいそう育ちが良いのだろう、良吉さんは。お婿に貰うならあんな人がいいねぇ」と女は一人言を言って、また来た道を戻り始めた。
女は疲れきっていた。山の中腹の茶屋へ戻ってくるのに一時間も掛かってしまった。辺りは薄暗くなり、鈴虫が鳴き始めていた。
「ただいま」
茶屋は提灯に明かりを灯していた。暖簾をくぐると、八畳の畳には布団が畳んで置いてあった。
「ただいま。やっぱり返事がないからこのまま寝させて頂くとするよ」
「おおぅい、好きにしろや」
居間の方からさっきの店主の声が聴こえたので、女は疲れきった体を布団に預けて、直ぐすやすやと眠りに就いた。
明くる朝、女は蝉時雨の騒がしさに目を覚ました。それから、昨日の疲れが嘘のように身体全体が溌剌としているのに気がついた。今日は帰り道を四、五時間で帰れるくらいに元気だぞと、意気込んで、奥の居間にいる茶屋の店主に礼を言うと急いで暖簾をくぐり、山道を歩きだした。それに気付いた店主は直ぐに追い掛け、女に追い付き、おむすびを二つ手渡した。
「ええい、落ち着かねぇな、せめて持ってけや。道中気を付けるんだぞ、御天道様が見てるからって油断しちゃいけねぇ」
「こりゃごめんよ。ありがとさん、旦那さん」
「良いんだよ、おめぇさんが元気で帰ってくれりゃ。おっ母さんを大事にしな」
「ええ、大事にします」
「んじゃ、さいならだ」
「ええ、さようなら」
女と別れを済ますと、店主の旦那は道を下って茶屋へ入っていった。
女は来た山道を戻る。これからまた峠を三つ越え、川を越え、家にたどり着く頃には、夕方の時分だろう。
それから女は歩きに歩いた。
峠を一つ、山を一つ、水を飲んで。
峠を二つ、山を二つ、おむすび食べて。
峠を三つ、山を……、と三つ目の山を下る途中、そこで辺りの違和感に気付いた。
それは一つの建物、隣村の手前の峠坂にあるはずの茶屋が現れたからだ。懐中時計に確認すると、今朝の九時を指していた時計は、午後四時を指していた。
「どういう訳なのかしら、なぜあの茶屋が……
」
女は動悸を抑えるのに必死だったが、どうにか暖簾をくぐり、畳に腰掛けた。店内を見渡すと、やはり同じ茶屋だ。
「ご、ごめん下さい、居ますか旦那様」
「へいへい、いらっしゃいませ」と奥の居間から現れたのは……。
「おや、見ない顔だねぇ。お若いのにこんな田舎まで山歩きとは珍しいが嬉しいねぇ、良いねぇ」
現れたのは杖を持ったお婆さんだった。女のおっ母さんよりも二周り以上は年を食っている。女は恐る恐る聞いた。
「こんにちは、今朝の店主の旦那様はいますか? 私世話になったんだけど」
「ん? なんのことかえ?」
「私は昨日の晩、帰れなくってね。それから、今朝までここの畳で寝泊まりさせてもらいました。旦那様にお礼を言いたいのだけど」
「何を言ってんだい。あたしはずーっと何十年も、この茶屋を一人でやってんだよ。バカにしちゃいけないよお若いの」と言って、お婆さんは杖をついて席に腰掛けると女の顔を伺うように、すぅっと睨み付けた。
女は事情を話した、事細かく説明し、薬屋の良吉のことも話した。お婆さんによると良吉という男は確かに峠下の村の薬屋にいる。
ただ、女が出会った初老の男の茶屋店主というのは元々居ないし、聞いたこともないという。女は寒気を覚え、暫くは一言も話せなくなった。
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