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同時刻、青木流護身術の道場では柳幸と雪代が向き合っていた。
二人とも合気道袴を身に着けている。
柳幸は雪代に対して体を真っ直ぐ前に向けていて、両腕をだらりと垂らしているが、雪代の姿勢は左自然体、正中線に沿って左手の手刀を水月の前、右手の手刀を下腹部の前に構えている。
柳幸の身長は170cm無い程度で、非常に痩せている為、実際よりも小さく見える
柳幸は透き通るように色白だ。
それゆえに真っ黒な髪の毛が一段と黒く見える。
センターに分け目がある線の細い髪の毛は艶もあり、うなじの下まである長めの頭髪は女性も羨むであろう美しさだ。
頭髪と同じ真っ黒な黒目が特徴の目は細くつり目の狐顔で唇は小さくややおちょぼ口で非常におとなしそうでおっとりした印象だ。
雪代と組手をするつもりなのだろうが、まったく闘気や殺気を纏っていない。
むしろわずかに微笑んでいるようにすら見える。
妹である雪代も透き通るように色白だ。
青木家の特徴なのだろうか、髪質は柳幸とほぼ同じで、色も真っ黒だ。
いかにも大和撫子という髪型で、腰近くまである長い頭髪を一本に結んでいるが、もうすでに組手を一本した後なのか前髪が乱れている。
顔つき、構造は兄の柳幸と同じだが決定的に違うのはその目である。
柳幸とは違いぱっちりと大きく開き、二重まぶたが年齢不相応な色気を醸し出している。
黒目は兄と同じ一片の曇りもなく真っ黒だ。
雪代は女性らしい体つきだ。
体の線は細いが女性の象徴は道着を着ていてもはっきりとその豊満さがわかるほどだ。
身長は女性にしては高い方で、兄の柳幸より少し低い程度だ。
兄妹であまり身長差は無い。
板張りの道場に他の門下生や父親である政博の姿は無い。
しばらく向き合うが二人とも動きが無い。
雪代の額に汗が滲む。
しかし、その汗を拭おうともしない。
最初に動いたのは柳幸だった。
脱力した姿勢を崩さないまま、ぴくりと体を震わせたのだ。
それを見逃さなかった雪代は即座に反応した。
「キヒィッ!!」
雪代の高い声での気合いが道場に響いたその瞬間、雪代は目にも止まらぬスピードで両膝を畳んでしゃがみ込み、柳幸の脹脛目掛けて回し蹴りを放った。
しかしそれは柳幸には届かなかった。
回し蹴りが届く前に、繰り出された柳幸の右足のつま先が雪代の水月にめり込んでいたのだ。
「アァァッ!!グッ…ウグゥ…オ…オア…」
雪代は悲鳴とともにだらしなく舌を出して、一瞬白目を剥くと、くるりと体を反転してうつ伏せに倒れ込んだ。
水月を両手で押さえたかと思うと、すぐに両膝と額を床に着いて体をくの字にした。
「ユキ、ごめん。だ、大丈夫?」
柳幸は丸みのある少し高めの声でゆっくりとした口調で言って、雪代の顔の前に右手を差し伸べた。
「さ、触らないで…」
雪代の声も高いが柳幸と違って刺々しさを感じる話し方だ。
「本気で…お、お願いしますって…言ったの…ハァハァ…言ったのォ…私だから…!」
雪代は体をくの字に曲げたまま顔だけ柳幸の方を向けて強い口調で言った。
顔はまるで安物の絵の具を塗ったように青ざめ、歯を食いしばった口の両端からは粘度の高い涎が糸を引いている。
「ユキ、僕は本気でやったよ?本気の組手は終わり。終わったんだよ。さぁ、手…。」
柳幸は差し伸べた右手を更に雪代の顔に近付けた。
雪代はその手を振り払うように顔を激しく横に振った。
「だ、大丈夫…だ…もんねぇ…だ…」
雪代はくの字に曲げた体を、両膝の力と首の力に全てを注ぎ込んでスローモーションのようなゆっくりとした動きで顔を床から離した。
そして雪代は全身に力を込めて顔を上げた。
両手はまだ水月から離せないようだが、上体は完全に起き上がった。
両膝を床に着いた状態で雪代は苦しそうにしながらも柳幸に対して笑いかけた。
全身の力みが功を奏して、顔色も戻ったようだ。
「立てる?」
柳幸は自分の力で上体を起こすことができた雪代を褒め称えるかのように優しく微笑んで言った。
「立てる…。へ、平気…!」
雪代はふらつきながらも立ち上がった。
しかしまだ胸を張ることはできずに体を少し曲げて水月を押さえた両手に力が入る。
「り、りゅうちゃん…ホントに…本気で…打ち込む…んだもんナ…。」
雪代は儚く笑った。
ダメージがかなり大きいのか両足はカクカクと震え、口の端から出る涎が止まらない。
「ご、ごめんね?ユキ…。」
柳幸は慌てた様子で雪代に手を出しては引き、出しては引きを数回繰り返しながら言った。
「へ…ヘヘん…年下の…女の子…を…仕留めきれないなんて…まだまだ…ね…。」
雪代は道着の右腕で涎を拭った。
「違うよ、ユキ。僕が謝ったのはそうじゃない。」
雪代は柳幸の言葉の意味が分からずに、苦しそうに顔をしかめながら柳幸の顔を見上げた。
自分が放った挑発に対して、まるでつながらない言葉に雪代は理解不能の領域を超えて、怒りさえ湧いてきた。
「そう…じゃない…?どゆこと…よ…?」
雪代は怒りに満ちた表情で言うと、柳幸は更にその怒りに燃料を投下した。
「本気じゃなかった。ごめん。やっぱユキに対して本気で組手するなんて無理だよ…。ごめん。」
雪代の時間が停止した。
兄が小さい頃は雪代の才能が勝り、兄を手玉に取っていた。
しかし、雪代は徐々に女性へと変化していく中、兄の努力の継続と、身体能力の向上は雪代の才能を遥かに凌駕したのだ。
最初からこの組手に勝とうなどとは思っていなかった。
そもそも勝てるわけがない、雪代はそう思っていたのである。
ならばせめて兄の全力を受け切り、気を失うことなく真正面から睨みつけてやりたいという気持ちで、今回初めて全力の組手を申し出たのだ。
そしてそれを達成し、挑発する台詞まで吐き捨てた。
その実、兄は本気ではなかったのだ。
雪代はその全てを頭の中で整理し終えると、ボロボロと涙を流した。
「ひ…酷いよぉ…ヒクッ…酷いよ…りゅうちゃん…。うぅ…あぁ…ヒクッ…。」
「ユキ、戻ろ?手…貸すよ…?」
「いいよぉ!もう…いい!ヒクッ…オエェ…」
雪代は柳幸の手を振り払うのに水月に当てていた右手を離したのだ。
押さえていたものが無くなったことで胃液が逆流したのか、そのまま両膝を着いて吐き戻してしまった。
あまりの苦痛とあまりの屈辱、そして激しい嗚咽で過呼吸となり、雪代は自分の頭を抱いてくれた兄の腕の中でプツリと気を失った。
ようやく訪れた静寂に道場の雰囲気が落ち着いた。
柳幸はふぅと小さくため息をついた。
雪代の頭を抱いたまま神棚の横にある段持ちの門下生一同の木札に目をやった。
右から
総代・師範 青木政博
師範代 青木柳幸
九段 青木雪代
「ユキが…師範代でも…全然いいと思うんだけどな…。」
柳幸は器用に雪代の体を反転させて背中に預けた。
そして雪代の両腕を首にかけて背負うとフンと鼻息を吐いて立ち上がった。
「ねぇ…父さん…。」
柳幸は雪代を背負ったままもう一度木札を見てから神棚に一礼し、更に道場を出る前に一礼してその場から消えた。
血族だから、一族だから師範代や九段を受け取ったわけではなく、柳幸と雪代は幼き頃からの英才教育の賜物か、ずば抜けた実力を持っていた。
父、政博は柳幸が高校に上がったばかりの時に師範代のテストを行った。
その際、組手をしたのだがなんと柳幸は政博を投げ飛ばし、更に政博に腕の筋を痛めるという怪我までさせたのだ。
この頃から政博は跡取りは柳幸しかいないと思い始めていたのだった。
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