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その晩も、楽の音の余韻に浸りながら、若者は家路につこうとしていました。
いつものように、木戸まで送りに来た侍女が、珍しく両手を膝の上で揃え、深々と頭を垂れて言いました。
「今宵は、九十九回目の訪いでございました。そして、明日が百夜でございます。よくぞ、続けてお通いくださいました。明日は満願成就の夜ということになります――」
「満願成就の夜――。いったい、どういうことでしょうか?」
侍女は、少しだけ驚いた顔をしてから、悪戯っぽく若者に笑いかけました。
そして、首を傾げている若者に、噛んで含めるように話しました。
「鳥刺しどのは、欲のないお方でございますね。姫さまは、百夜お通いいただけたのなら、御簾越しではなく直にあなたと顔を合わせたいと仰せなのです。そして、いつものように笛と琴を奏でたのち、共に朝まで過ごすことをお望みです」
「明日もこちらへ伺えば、姫さまのお姿を拝見し、お声を耳にできるということですか?」
「さようでございます――。姫さまは、あなたからいただいた櫛でとかし、毎日磨きをかけておいででした。どうぞ、必ずお越しくださいませ」
侍女は、思わせ振りな目線を若者に送り、ゆっくりと木戸を閉めました。
翌朝、若者はなかなか起き上がることができませんでした。
一晩中、眠らずに考えていたことがありました。
今夜、あの屋敷を訪ねれば、姫さまにお目にかかることができる――。
それは、大きな喜びではありましたが、どこかむなしいことでもありました。
これまでの九十九夜の訪いを通して、若者の心の中にはすでに姫さまの姿が形作られていました。今では、自分に呼びかける声、そして彼女の髪や肌の感触さえ、若者は容易に思い描くことができるようになっていました。
姫さまにお目にかかったとき、若者はきっと、自分が心の中に形作った姫さまと本当の姫さまを比べてしまうことでしょう。
そう考えるだけで、若者は心が痛みました。
山へ入り鳥寄せ笛の稽古をしても、集まってきた小鳥たちにえさをやっても、気持ちは辛くなるばかりでした。
昼過ぎに家に戻った若者は、あれこれ思い悩んでいるうちに、柱にもたれて眠ってしまいました。
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