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真美子は夏が嫌いだ。
暑くて暑くて堪らない。夏の気温の高さは利点ではないと彼女は思う。
少し外に出ただけで汗を掻く。汗を掻くと、折角の化粧が崩れる。どんなに丁寧に下地から作り上げてもあっと言う間にファンデーションが浮き、アイシャドウを塗った目尻に汗が溜まる。瞬きをすれば汗が目に入り、ハンカチを使えば慎重に拭ってもラメが剥がれ落ちる。
友人の中には「暑い方が好きだな。冬はあんまり好きじゃない。寒いとストーブの前から動けない。出かけるまでに時間掛かる」と言う者もいるが、真美子としては、寒い方がマシである。寒い時に着込むのは苦ではない。お洒落に見せるにしても、コート一本でどうにかなる時があり、幾ら着込んでいても問題ない。
暑い時には服を脱ぐしかない。裸で出歩ける場所は基本、この世には存在しない。暑いなりのお洒落が無い訳ではないが、寒い時期よりも幅が狭い。薄けったい服を着るにしても、洗濯に手間がかかる。休みの日に限った話だが、毎日毎日二度も三度も風呂に入り、着替えをするのは面倒だ。
仕事がある日は更に最悪だ。真美子は総合商社の事務員をしている。事務所はいい。エアコンの風が行き届いた涼しい室内で快適に仕事が出来る。エアコンの風は体を冷やし過ぎるし、乾燥もするから体にあまり良くないと言われたところで、デスクには小型のスチーマーを置いてある。乾燥対策はバッチリなのだ。
では、どこが最悪なのかと言われれば、勿論通勤退勤時である。
家から一歩外に出れば猛暑。電車は満員。人口密度が高い中に放り込まれると、一気に発汗してしまう。朝一から、もわりと汗の臭いが胸元から漏れてくるのは最悪でしかない。
事務所にはシャワー室など存在しない。事務所に着いて一番にすることは、化粧室に飛び込み、制汗シートで全身をくまなく拭き上げることだ。周りの人から汗臭いなどと思われては堪らない。
そんな折、友人の杏奈から変な物を教えて貰った。「暑い方がマシ」と言っていた彼女と、休日、気になっていたカフェへ二人で出かけた。その際の世間話だ。
SNSで取り上げられていた宇治抹茶のかき氷をスプーンで突きながら、杏奈は口を開く。視線は半分、机に置かれたスマートフォンの画面を見ている。
「夏の終わりグミって知ってる? 最近人気なんだけどさ」
真美子はヨーグルトソースがまんべんなく掛けられた氷を口に運ぶ。太陽が照り付ける中を歩き、火照っていた体が冷やされていく。飲み込んでから
「何それ。ホラー映画?」
と言った。
杏奈は笑いながら「違う違う。ちゃんと食べ物だよ」と言う。
杏奈は昔から新しいもの好きで、色々なものを試している。中学生からの付き合いだが、世間の流行をいち早く察知して、クラスに広めるのはいつも杏奈だった。常にスマートフォンを注視する悪癖は在るものの、アンテナは高く広く「一体どこの界隈でそんなものが流行っているんだ」と聞きたくなる商品の情報まで持っている。今回もそれの類なのだろう。
「夏の終わり以外にも”春の終わり”とか”冬の終わり”とかあるんだけど。食べるとね、その季節の思い出を見せてくれるんだって」
「それって、どういう原理?」
「実際に見せてくれるわけじゃなくて、やっぱり”それっぽい”味がするだけなんだけどさ、販売サイトのレビューを見ると結構、皆『思い出が見えた』って書いてるんだよね。香料のせいなのかな? あと、最近の思い出より昔の記憶の方が出てくるみたいだね」
友人の言を受けて、真美子は考える。
春によく出回る”桜味”みたいなものだろうか。実際に味がある訳ではなく、抽象化した近しい香りを付けた食べ物。実際に桜が使われているものもあるものの、殆どが香料だ。大衆のイメージするその季節らしい味がするのだろう。
「杏奈はもう試したの」
「うん」
「何味?」
「全部買って試したけど、一番面白かったのは冬の終わり」
冬と聞いて、真美子は少し目を丸くする。杏奈はてっきり夏が一番面白かったと言うと思っていた。自分が好きな季節の方が楽しい思い出が見られそうではないか。
「冬より夏がいいから終わると楽しいとか、そういうの?」
「ちょっと違うかも。口で説明するの難しいから、真美子にもあげるよ。間違えて二つずつ届いたから丁度いいね」
杏奈は足元の荷物入れから鞄を取り出し、小さな手提げ袋を真美子に差し出した。真美子は苦笑する。
「渡す気満々だったな」
杏奈は「えへへ」と誤魔化すように笑う。
「間違えたのは本当だけど、面白かったから」
杏奈は「まあ、今のお流行だからさ」と言って、再びかき氷の山をスプーンで崩し始めた。
カフェの後は宛てもなく二人でウインドウショッピングをし、杏奈と別れたのは夕方だった。
家に戻った真美子は、シャワーを浴び、半分濡れたままの体にクーラーの風が当たる。これが本当に気持ちが良い。体が殆ど乾いた頃に手提げ袋からグミを取り出した。
流行と言われるとどうしても弱い。人気の商品は一度はチェックしておきたい。現在人気があるものは相応の理由があって流行っており、販売サイトのレビューだって、あながち間違ってはいないのだろう。
ごちゃついたローテーブルの上を片付け、綺麗に拭き上げてから皿を出す。潰れたクッションを敷いて、ローテーブルの前に座る。グミなど、気合を入れて食べる様なものでもないと思いつつも、一つ一つ、透明な皿の上に乗せていく。
春はそれらしいピンク色。夏はやはり青。秋は赤色とオレンジ色の中間の様な色で、冬は灰がかった白色をしている。どれも匂いはあまりしない。
どれから食べようか迷った末に、結局夏にした。今が夏だから。それから杏奈が冬が面白かったと言っていたから。左程、好きではない季節の思い出が面白かったのなら、一体自分はどんなことを思い出すのか知りたかった。それっぽい味がするだけだったとしても構わない。職場でのおやつとして消費していくだけだ。
口の中に入れると、鼻腔へ一気に香料が広がる。先程まではふわりとすら香らなかった筈なのに、鼻の奥には生き物の匂いを感じた。生命の全てを香りにしたら、とても口にできるものではないだろうが、“生きているもの”の香りだと思った。
奥歯で噛みしめる。僅かに甘い。舌で転がしながら、グミの角度を変えて、何度も噛む。香りは目まぐるしく変わっていく。
噛んでいる内に香りは少しずつ消えていく。味はずっと残っているのに、香りだけがぼんやり消える。その内に“生きているもの”の香りはほんの僅か、遠く離れていって、甘い味だけがするようになった。
グミを飲み込んた後、即座に冬の終わりを口にした。
冬は始めから澄んだ香りしかしなかった。味は夏と変わらない。夏に感じた様々な生命の香りは全くと言っていい程感じられず、代わりに素っ気ない空風の風味が漂ってきた。けれど、味蕾は僅かに温かさを感じ取っており、グミが細かくなるにつれて、軽い味わいになっていく。
不思議だった。グミを噛む度にその季節の気配を感じる。季節の盛期から終期までを味わっているかのような。
真美子は喉の奥、胸の中から何かが込み上げてくる様な感覚を覚えた。泣き出す寸前の胸の奥が熱くなってくる、そんな雰囲気の痛みが胸中に広がる。こんな風に感じたのは何時振りだろうか。会社でのおやつには向かない。
結局、真美子が食べた限りは、思い出は浮かび上がってこなかった。もう一度夏を食べても、生き物の香りがするばかりで、終いには汗のニオイが漂っているかのような気すらした。最悪な気分になりかけたので、急いで台所へ行き、冷蔵庫から麦茶を取り出して飲み干した。相変わらず夏は暑くて嫌いなままだ。冬の方がマシな程度だが好感を持っている。
杏奈は一体、どんな冬の終わりを感じたのだろうか。思い出は見れたのだろうか。今度会ったときに聞いてみよう。
そんなことを考え、クーラーの効いた部屋の中で、汗の香りが消えるまで麦茶を飲み続けた。
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