願い事はあとひとつ

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 一学期の終業式を終えて、夏休みに突入しても、寛人はメッセージを欠かさなかった。おはようからおやすみまで、何気ないやり取りが可愛らしいスタンプと共に画面に並んでいく。 『理子、いま何してた?』  時には、電話も。 「宿題していた。寛人は?」 『俺はちょっと外出』  スピーカー越しの寛人の背後からは、車のエンジン音や人の話し声が遠くに聞こえる。寛人の近くを通り過ぎたのか、こちらには聞こえない救急車のサイレン音も。突如現れた不透明さによって消化不良を起こしたような感覚に陥った。外出ってどこに? 誰と? 訊ねる権限など持たないのに、胸の底が重い。  寛人と付き合い始めて一か月が経とうとしていた。教科書や雑誌を乱雑に入れたカラーボックスの前にある紙袋が、散らかった部屋のなかで存在感を主張する。 『理子』  スピーカー越しに聴く寛人の声がいつもよりも近くに聞こえて、胸がざわついた。 『花火大会、楽しみにしている』  紙袋には、新品の浴衣が包装されて入っている。親戚から譲ってもらった上等な浴衣だと喜んだのは母のそばで、私は冷静だった。子供だった頃よりもずっと、感情の波が引いていくだけの未来を知っている。  ボタンに手を伸ばすほど欲しかった浴衣。怖くてまだ袖を通していない。  通話を終えた後も、寛人との会話が頭のなかをぐるぐると回った。宿題の進捗や仲のいいクラスメイト、通っている塾の話などとりとめもない話題。私は、上手く答えられていたのだろうか。私の声も、電話回線を通じて何か変わっていたのだろうか。  寛人との会話はいつも緊張してしまう。与えられた言葉を簡単に取りこぼさないように、丁寧に収納する作業にはまだ慣れない。  宿題の続きをしようと再びペンを握り、視界の端にあるボタンから無理やり目を背けた。願い事は、あとひとつ。
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