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八月の第一日曜日。花火大会当日。天気予報で映る全国地図に見事に晴れマークが並び、昨日発生したという台風はまだ海の彼方だ。
夏休みが始まって二週間。今朝も寛人のメッセージが届いた。
『おはよう、理子。浴衣姿楽しみにしてる!』
窓の外では蝉の声が鳴り響いている。空調の効いている室内とはまるで別世界だ。それきり、寛人からのメッセージはない。最後に送ったスタンプに既読マークすら付かない。アプリを開いては落胆し、よくない思考に捕らわれそうになる。
願い事はあとひとつ。慎重にならなければならない。私は、私自身の衝動的な貪欲さを誰よりも知っているから。
全身鏡の前で浴衣を手に取った。薄いピンク色の菫が散りばめられたデザイン。世界一可愛いものを願って手に入れた一枚。
確かに可愛い。控えめな色味も、和を感じさせる布の質感も、恋人と出かけるイベントにぴったりなのだろう。綺麗に折り畳まれていた浴衣を広げて洋服の上から羽織ってみる。似合っていない訳じゃない。なのに、招かざる者になったような心許なさが汗で湿った首元にまとわりつく。
他力本願で手に入れた物に価値なんて最初からなかったのだ。子供の頃からずっとそうだったように。無秩序に並べられた服やコスメや雑貨のように。
いま羽織っている浴衣も、寛人との時間も、それらに並んでしまうのだろうか。ある日突然やって来たボタンを思う。叶えられる願いはあとひとつ。ボタンの隣に置いてあるスマホがブルブルと震える。寛人からの着信だった。
「もしもし?」
『理子……』
寛人の声は、今朝のメッセージなど嘘だったように不安定に揺れていた。「どうしたの」と思わずスマホを握りしめる。
『ばあちゃんが……』
ガサガサな声の背後では雑音が響いている。数日前の記憶が輪郭を持った。車のエンジン音、人々の話し声、こちらでは聞こえない救急車のサイレン音。
『もう、だめかもしれないんだ……』
だめかもしれない、という曖昧な日本語は、鏡に映る淡いピンク色に跳ね返り、私に意味を与えるまで少々の時間を要した。
窓ガラス一枚を隔てた向こう側。スピーカー越しの声。別世界なんかではない。現実感が浴衣よりもずっと鮮やかな色を伴って私を襲う。私の見栄やちっぽけなプライドさえも、飲み込んでしまう。
私は羽織っていた浴衣を脱いだ。
「私、今からそっちに行く」
寛人をひとりにはできなかった。自分の非力さを目の当たりにするよりもずっと、それは恐怖だ。机に置きっぱなしのボタンが無言のまま存在感だけを示している。
願い事を叶えられるのはあと一回。
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