願い事はあとひとつ

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 それは一か月前、梅雨真っ盛りの、校舎ごと雨に沈められそうな日の放課後だった。  大雨警報のため部活動が停止となり、運動部の掛け声も吹奏楽部のメロディーも聞こえず、人気(ひとけ)すらない校舎に私は取り残されていた。日直の仕事をしているうちに帰宅するタイミングを逃してしまったのだ。  ゲリラ豪雨が校舎そのものを叩いていた。六月の夕方だというのに薄暗い廊下、足元まで浸って来そうなほどの雨音、遠くで鳴る雷の轟き。  ついていない、と思った。それは私の口癖だった。わずかなアンラッキーによって、人生そのものの幸福度が下がったような感覚に陥ってしまう。  ため息をつきながら教室のドアを開けると、人影があった。思わず小さく悲鳴をあげると、「あ、ごめん」と能天気な声が響いた。寛人だった。  ――なんだ、理子か。まだ帰ってなかったんだ  振り向いた寛人にどこか(かげ)を感じたのは、教室が薄暗かったせいではないはずだ。  ――日直だったから  ――そっか  少しだけ雨音が弱まった気がした。窓の外に視線を向ける寛人の横顔を見つめながら、私は数日前の出来事を思い出していた。不可思議なボタンと、不可能な願い事。なのに、  ――付き合おうよ  寛人が言った。明確な意思を映した瞳を私に向けて。  バスに揺られている間、豪雨の音にも溶け込まなかった寛人の声を思い出していた。  私はずっと後悔している。馬鹿な見栄とプライドによる安易な願いが、寛人の大切な時間を、感情を、奪ってしまった。今となってはもう、願わなかった世界線は存在しない。  三十分ほど走ったバスは、目的地である病院前の停留所に停車した。私以外にもちらほらと乗客が降りていく。 「理子」  バス停で寛人が待っていた。スポーツブランドのTシャツにデニムという、シンプルなファッションがよく似合っていた。思えば、私服姿の寛人に会うのは初めてだった。 「わざわざ来てもらってごめんな」 「ううん」 「花火大会も、せっかく約束していたのに、ごめん」 「そんな事、どうだっていいよ!」  病院前の大きなロータリーの一角には強い日差しが入り込んで、皮膚がじりじりに焼けていく。  キャップ帽の下にある寛人の表情は、あの日と同じだった。他のクラスメイトの前では見せることのない、気だるさをまとった雰囲気。不安じゃないわけがない。  私だけが知っているのかもしれないという優越感と、恋人としての自分の物足りなさがせめぎ合う。まだ足りない。どんな願いを叶えたって、満たされることなんてないのかもしれない。 「ばあちゃんの事なんだけどさ……」  寛人の声が近くを走る救急車の音に絡まり、嘘だ、と思った。まさか、そんなわけない。  だって三十分前、私はボタンを押したのだ。あと一回だけでいい。あと一回がいい。私のためだけじゃない、最後の願い事。  ――寛人のおばあちゃんが助かりますように  ボタンの効果が本物だったらいい。寛人が悲しまなくて済むなら。  ボタンの効果が本物じゃなかったらいい。寛人の気持ちを本物だと思えるから。 「ばあちゃん、一時は危ないって言われていたんだけど……、さっき、持ち直したんだ」  日曜日だからか、病院のロビーは薄暗い。それでも事情を持って訪れる人々。彼らにも、叶えたい願いはあるのだろうか。  海の向こうにあるはずの嵐が目の前で吹き荒れる。寛人に縋って、全てを打ち明けたかった。そして、寛人の言葉が本物であることを何度でも確認したかった。  私に必要だったのは、服でもコスメでも雑貨でも、ましてや寛人の彼女という立場でもない。 「理子、ありがとう」  ボタンについて知る由もない寛人が私に言う。言葉以外からも伝わる寛人の眼差しに溺れていく。その息苦しささえ心地よい。私の欲しかったもの。今まで満たされなかった心の器から、さまざまな感情が溢れ出す。安堵、後ろめたさ、そして、恋しさ。  寛人と付き合わない世界線はもう存在しない。だから、寛人の手を取った。私のものとは違う大きな手。この手はきっと、自分の力で欲しい物を掴み取ってきたのだ。努力と誠意をもって。  触れた手を包み込まれるように握り返されると、じわりと熱が駆け巡っていった。今度は私が言葉を伝える番だ。力を込めて寛人を見上げる。まっさらな瞳が私を映す。  願い事はもういらない。 (了)
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