1/1
前へ
/4ページ
次へ

 二年ぶりの冬山登山だった。  二年というブランクがあったのは、彼女、松本加奈子の自殺があったからだ。  わたしは加奈子に限って自殺なんかするわけないと心の底から思っていた。  あれほど幸せそうな笑みを浮かべていた彼女に限って、そんなことは絶対にない。  もの思いに耽っていると、後ろから光男が声をかけた。 「なあ、萩原。健三の気配がさっきからしないんだ」  先ほどまで吹雪いていたが、勢いを増したように思う。このまま時間が経てば、周りを吹雪で閉じ込められそうだった。  このままでは三人とも行き倒れになってしまう。今から引き返して下山するのも危険だ。このまま前に進むしかない。  最悪、雪洞を掘って一夜、ビバークするしかなかった。食料は三日分あるから、餓死することはない。  ただ、吹雪の度合いが早まっていた。 「萩原、どうやら、はぐれてしまったようだ」  わたしは後ろを振り返った。光男の言う通り、健三の姿はなかった。 「光男、とりあえず進むぞ」 「もしかすると、健三が追いつくかもしれない。ここで待たないか?」 「ダメだ。ここに留まったら、俺たちは凍死する。身体が動くうちに動いた方がいい」  わたしの提言は非情に聞こえるかもしれない。だが、雪山ではちょっとした選択が生死を分けるのだ。  しばらく歩いていると、吹雪の中、一軒の山小屋を見つけた。  木造平屋建ての山小屋は明かりが灯っていなかった。誰にも利用されることなく打ち捨てられているようだった。  わたしは試しに扉を開けてみた。スッと抵抗なく開いた。  神は見捨てていなかった。小躍りしたい気持ちを抑えて中に入った。 「よかった。暖炉がある。凍えずに過ごせそうだ」  光男は声を上げた。  わたしが扉を閉める頃には吹雪が完全に山を飲み込んでおり、先がまったく見通せなかった。  わたしが扉に閂で鍵をかけた。 「萩原、鍵なんかかけることないだろう。健三が追いつくかもしれないのに...」 「いや。ダメだ。この山には雪男が出没するっていうじゃないか」  光男は暖炉の薪に火をつけた。中が明るくなった。 「とりあえず、暖をとろう。身体が冷え切って身体の節々が痛むよ」 「光男、年取ったな」 「だってさ、大学を卒業してから十五年も経つんだぜ。俺たち、もう中年だからな」  暖炉の炎は赤々と燃え、二人の身体をほぐした。ひと段落ついてから光男が訊いた。 「雪男って、あの毛むくじゃらの怪物かい?」 「ああ。実際に見たという人間はいないらしい。見たとしても食べられちまうから」 「本当かい?こんなとこで冗談はやめてくれよ」 「俺は冗談なんて言わない。雪男はいるんだ。もしかすると、健三は雪男にやられたかもしれない」  光男は急に不安になったのか、辺りを見回した。吹雪の音以外、何も聞こえない。 「なあ、もし、健三が雪男にやられたとしたら、雪男は山小屋に近づいているんじゃないか?」  光男は顔面蒼白だ。 「そうかもしれない。春や夏に備えて、大量に食べるからな。ただひとつ、雪男から逃れる方法があるんだ」 「マジか?」 「ああ。雪男は人を食べる前に質問をするんだ。そこで嘘をついたら食べられちまうんだ。本当のことを言ったら見逃してもらえるらしい」 「健三はそれを知っているのかな?」 「さあね。ただあいつも山の伝承には詳しいから、わかっていると思うが...」  その時、扉からノックの音が聞こえた。俺と光男は気配を消して、扉を見た。再び、扉を叩く音がした。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加