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一等星の光もない、月光だけが照らす都会の空の下で二人は、不穏な空気に覆われていた。篠原の膝は地面と接すると隙間だらけのジェンガのように崩れ落ちた。しがみついていた脛から腕をほどく。
体の力が全て抜けてしまった。今自分の身に降り掛かった出来事の何一つとして理解ができない。マッチ売りの少女はマッチの火を見て幻覚を見たが、ライターにも同じ効果があるのかもしれない。まだ四月だが、原作通りなら凍え死んでいるのだろうか。
「あの……」
切り出してきたのは相手からだった。見上げると、顔はよく見えないが、普通にスーツを着た男が怯えたような、不安な出で立ちである。その右手には棒……箒が握られてある。
「なんかすみません、迷惑かけたみたいで」
「あ……いえいえ」
あまりも出来事にボキャブラリーを失い、社交辞令のような会話になってしまう。
「今日のことは忘れてください。僕、帰りますんで」
雑に手を振りほどかれたような言葉に、ふと口にする。
「え、帰れる?」
「はい?」
「ここ人のビルの屋上ですよ。外から扉開くかわかんないし」
喋りつつ、震える膝をいたわるように立ち上がる。並んで立ってみると、自分のほうがやや背が高い。そして見たことのある顔だ。女は寄ってくるがその女を食うことはできなさそうなこの感じ。名前は、覚えていない。観察しながら返答を待った。
「じゃあ、どうすると思います?」
最も求めていない答えが帰ってきた。この逆質問が返ってくるのは大抵が面倒な女だが、まさか面倒な男がいるとは。
視線を少し落とす。本当になんで箒を持っているんだ? それも掃除ロッカーに入っているようなあれではなく、ローマの家政婦が持っているようなそれだ。
「その箒で空飛んでけばいいんじゃない? 魔法使いみたいに」
この手の逆質問には目についたもので適当にあしらうのが最善手である。
「そうですよ」
最も想定していない答えが帰ってきた。
「バレちゃしょうがないですよ。乗ってください」
男は箒にまたがり後ろを向き、こちらには座るにしては心もとないにもほどがある直径一寸ほどの棒が差し出された。しかしこうなった以上乗るしかない。知らない屋上から降りられずに一夜を明かすようなことはしたくない。
「ちゃんと掴まっててくださいね、篠原さん」
「はい」
さっきまで必死こいて脚を抱きしめていたのだ。今更恥ずかしがることではない。
自分の顔と名前が相手に知れていたことに気づいて羞恥するのは、その数秒後のことである。
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