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初めて空を飛ぶ感覚は不思議なものだった。なんだか股のあたりがものすごく痛むが、過ぎていくビル群を見下ろす爽快感を考えれば少し痛みが勝つくらいだ。
「あの、お名前よろしいでしょうか」
恥を承知で訊ねる。名前というのは相手が覚えていたらこちらも覚えているのがマナーである。
「僕は宇草っていいます、編集局の。多分篠原さんには挨拶したことなかったかな」
宇草。そうだ、きっとその名前だ。挨拶もされたことがある。気を遣われた。二十五歳とかの、若いながら仕事がよくできる人だ。関係は薄いが、編集を頼んだこともある。思い出すたび、さっきふくらはぎにしがみついていたこと、いま後ろからバックハグ状態なことが恥ずかしくなってくる。
「ところでさ、篠原さんはなんで屋上に来たの?」
「タバコです」
「そっか。うち喫煙所ないもんね」
「そうなんですよ。五年前から体感半減してますよ」
数ターン会話していると、自分が空中で世間話をしていることに気づいた。核心を突く質問をしなくてはならない。篠原はあくまで記者なのだ。
「宇草さん……は、なんで空を飛んでるんですか」
うまく質問ができない。失業から半年のブランクの大きさに勝手にため息をつく。だが宇草は渋りながらも快く答えてくれた。
「隠しようがないから言うけれど、僕、魔法使いなんだ」
多分そうなのだろうと思ったが、本人の口から聞くと信じがたい言葉だった。魔法使いなんて、ホグワーツか中世ヨーロッパにしかいないと思っていた。
「本当に、魔法使い?」
こうもおかしな出来事に、無駄にもう一度訊いてしまった。同じ質問も二度目に否定されたら記事にできない。記者として失格だ。
そして篠原は思い出した。自分は東告新聞社怪異局の記者じゃないか。それになんと、目の前には夜のオカルト好きがウキウキするような『魔法使い』の証拠が両手を広げてくれているのだ。
ここで一本、世をあっと驚かせるようなオカルト記事を執筆できれば、また政治か経済の担当に戻ってこられるかもしれない……。
「魔法使いだよ。嘘だと思う?」
もちろんのこと、嘘だなんて微塵も感じていない。信じていないだけだ。とにかく今の篠原にとっては今抱きしめている男から自然な流れでネタを入手することが何より重要なのだ。
「いいえ。でも魔法使いがこの世界に、しかも会社の先輩にいるだなんて」
「ねえ。不思議だよね」
宇草はまるで他人事のような反応だ。
「魔法使いなんて、ホグワーツか童貞にしかいないと思ってたでしょ」
一瞬、心でも読まれたのかと心臓がきゅっと縮まるように感じた。しかし、童貞とは思っていない。篠原も三十歳だ。
「いやいや、思ってないですよ」
少し間を悪くしながらも会話を続けた。しかしその影響か、数秒不自然に風の音だけが耳に入った。東京の中心だって、空はこれほどまでに静かなのだと、今初めて知った。
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