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 ケンイチが目のまえで死ぬのを、ソウゴは七十二回見た。最初にそれを目にしたのは今日の午前十一時三十分。そして、七十二回目に見たのも今日の午前十一時三十分だ。 「きゃあああ! ビルから人が降って……」  蝉の鳴き声と炎天下のなか、おかっぱ頭の女が取り乱して叫ぶ。 「くそっ」  やり直しだ。衝撃が走り、ソウゴのまわりの時間が止まる。アスファルトで首をあらぬ方向に曲げたケンイチの身体が正常な向きに戻っていく。まるで動画の早戻しのようにスルスルと時間が戻りケンイチの身体が空中をあがっていった。叫んでいた女がうしろ向きに歩き、車道を走る車もうしろに走り去る。これはソウゴにとって七十二回目の風景だった。そして彼の時間は一週間まえの八月二十四日で停止する。 「うーん……」  早朝七時、カーテンからこぼれる太陽の光をよけてスマートフォンを拾いあげる。ここにケンイチからの喜びのメッセージが入っていることを彼は知っていた。 「すげえいい女とマッチングした」  その文章のしたには女の写真が貼られている。名前はルナ。ケンイチが最近ハマっているマッチングアプリで知りあった女だった。 「へえ、よかったじゃん」  目覚めたソウゴはあたりさわりのない返答をする。この返答を工夫したところで結果に差が出ないことを七十二回の失敗で学習していた。以前は「どうせ加工だろ」とか「年齢ごまかしてるかもしれないぞ」なんて言ったこともあったが、そのたびに「嫉妬乙」とか「マミちゃんより可愛いからって、人の彼女を(おとし)めるのはよくないぞ」なんて返されるだけだった。それならば、ここはなにも考えず無難に返答するだけでいい。 「なんだよ、冷てえな。こっちはさっきまで通話してたからテンションマックスなんだよ」  この台詞もすでに七十二回聞いている。 「ルナちゃんは今日が休みだからいいけど、おまえはこれからバイトだろ。寝不足でガソリンスタンドの店員がつとまるのかよ」 「平気だって。っていうか、なんで名前知ってるんだ?」  しまったとソウゴは思った。七十二回も同じことをやっていれば、惰性の会話で失敗してしまうことも稀にある。そういえば、今回はまだ名前を聞いていないんだ。 「まあ、いいや。じゃあな」  そう言ってケンイチは一方的に会話を終えた。続いて鳴るのは恋人のマミからの着信だ。 「起きてるー?」  受話口からマミの元気な声が聞こえる。今日は午前中からデートの約束をしていたのだ。 「ああ、さっき起きた」 「めずらしいね」  七十二回連続早起きだよと言おうとしてソウゴはやめた。こんなことを言ったところで信用などしてもらえない。ここも無難に返事をする。
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