進藤刑事、退職する

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進藤刑事、退職する

あれから数十年。 俺は刑事になった。 それなりにキャリアを重ね、そりゃ現場で走り続ける人生だったが、空き巣にはじまり盗難、詐欺、事故、殺人…目の前に現れた事件にいっぱいいっぱいで、金魚を掬う機会なんてないままに定年を迎えた。 「進藤さん、今日で終わりっすね。残りの人生は何するんですか?」 今年入職したばかりの新人が声をかけてくる。最終日だからといって事件が控えてくれるわけではないが、今日は特段大きなことも起こらないまま、午前を終えようとしていた。 机に向かい、荷物の整理をしながら「さあな」と短く答える。 「あ、奥さんと旅行とか? 刑事だとなかなか家族サービスもできないっすもんね〜。ようやく一緒にすごせるって、喜んでるんじゃないですか?」 おめでたいやつだなと心の中で毒づく。四六時中、家族は後回しにしてやってきたのだ。今更挽回しようがないほどには仲は冷え切っている。…多分。結婚当初こそ、冷え切った食事と共に食卓に突っ伏して俺を待っていた妻だが、今はすっかり、俺のことなどお構いなしにマイペースに暮らしている。 げんに今日だって、朝何も会話のないまま出てきたのだ。定年の日というのはそれなりに感慨深いものではあるから、妻から何かしらねぎらいのひとこともあるだろうと密かに期待していたのだが。 三十年以上連れ添った妻は、今日は友人たちとランチに行くらしい。最近できたファッションビルに出店した、日本初上陸のフレンチレストランだという。 フレンチなんて、二十代そこそこの頃、結婚して初めての記念日に一度行ったきり。奮発して背伸びしたものだから、ぶかぶかのスーツにガチガチに緊張する姿はさぞ滑稽だっただろう。 今頃ちょうどランチをしている頃か…とちらりと時計に目をやると、十二時半を示していた。 妻へのささやかな対抗心で、今日はいつもと一ランク上の定食でも食べようか、なにせ俺は今日で終わりなわけだし、と思った時、けたたましい警報が鳴った。管内で何か事件が発生したらしい。続いて放送が入る。 『本部より各局。事件発生。四丁目商業ビルに爆弾を仕掛けたとの通報あり。繰り返す、四丁目商業ビル〈サウスタワー〉に爆弾を仕掛けたとの通報あり――』 サウスタワー? その言葉に眉を顰める。まさに今妻がいるところじゃないか。 「最終日に爆破予告なんて。進藤さん、犯罪に愛されてますね」 新人に苦笑を向けられ、鼻で笑う。 「刑事冥利に尽きるな」 車のキーを取り、駆け出す。 「行くぞ」 「はい」 道すがら携帯で妻にメールを打つも、既読になることはなかった。
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